2008年10月15日

グノーシス 古代キリスト教の異端思想

筒井賢治著
講談社選書メヂエ 1500円(税別)
初版: 2004年10月

”グノーシス”というのは「認識」、「知識」を意味するギリシア語です。
創造神を含めてこの世を蔑視して、この世の上にある上位世界(そして外部にある至高神)を信奉するといった宗教です。この世界認識を持ってるのが”グノーシス”です。

この本では、グノーシスでも初期のキリスト教的グノーシスに絞っていて、紀元2世紀のころの、ウァレンティノス派、バシレイデース、マルキオンのそれぞれについて解説しています。


1.至高神=創造神は、自らが造った人類を罪から救うべく、自らの子イエス・キリストを遣わして人類に福音を伝えた。
2.至高神は、低劣な創造神が造った人類から、その中に取り残されている自分と同質の要素を救い出すべく、自らの子イエス・キリストを遣わして人類に福音を伝えた。
3.至高神は、自らとは縁もゆかりもない低劣な創造神が造った、自らとは縁もゆかりもない人類を、純粋な愛のゆえに、低劣な創造神の支配下から救い出して自分のもとに受け入れようとした。そのために至高神は自らの子イエス・キリストを遣わして人類に福音を伝えた。

1が当時の正統派キリスト教、2がウァレンティノスやバシレイデース、3がマルキオンといったところです。


ちなみに注意事項としてはグノーシス系の文脈ではプトレマイオスという名前が出てきますが、あの天文学者のプトレマイオスとは同時代でも別人です。


これまでキリスト教は、漸進的に進化していると漠然と思っていたのですが、こうやって読むと、異端という対照があって、正統派が深化したのでしょうか。やはり、思想というのは対立軸があってこそ深まるということでしょうか。

 

他人の書評を読んで:
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004060.html
正統派のキリスト教では人間は知恵の果実を食べたから楽園から追放されたことになっている。グノーシスでは逆に知恵の果実を食べて覚醒することで上位世界へ帰還することを薦めているように思えた。グノーシス研究上、重要な古文書ナグ・ハマディ写本には、プラトンの「国家」も収録されているそうだ。理性重視のギリシア哲学やプラトン思想に影響を受けていることが強く感じられる。
たしかにこの本を読んでいると、ナグ・ハマディ写本とかに興味でてきます。そして、このグノーシスも(そして一方で正統派キリスト教も)プラトン思想の影響を強く受けているという印象はあります。私の解釈では、理性重視、というよりも、理想重視、でしょうか。グノーシスは今の基準からすると、理性というよりも、理想論、でしょうか。もちろん、理想論というのは世界の理想でなく、ある人の理想論なんですが。


ちなみにマルキオンはもともとは船主だったということです。ストア派のゼノンも元々は船乗りだったはずです。やはり、海の上で星を見上げていると人は哲学者になってしまうのでしょうか...

真っ暗な海の上で星を見上げて、世界に思いを馳せたいものです。
 
posted by 山崎 真司 at 22:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学、人生論

2008年09月17日

歴史哲学講義(下)

ゲオルグ・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル著
岩波文庫
初版: 1994年8月

今の自国の状況(”今の”歴史)は肯定的に捉えるべきでしょうか、それとも否定的に捉えるべきでしょうか。ちなみに、私は現在の日本の「今この時」を肯定的に捉えることは出来ません。


では、ヘーゲルはこの歴史哲学講義で何を言おうとしていたのでしょうか。ちなみに、この歴史哲学講義は、まさに講義ノートですので、当時の大学(今の大学と違って本当にエリートの集まりだったはずです)で教えていたもので、それを踏まえて読む必要があります。

内容は、過去の歴史を述べながら、”今の”歴史の立ち位置を述べています。そして、この立ち位置は「ともあれ、この形式的な絶対原理の登場とともに、わたしたちは、歴史の最終段階であるわたしたちの世界、わたしたちの時代にやってきます」が全てを表していると思います。
ここに至る過程で諸事象についての考察を行った上なのですが、ここまで読むと”今のわが国”を全肯定しています。
もちろん、この背景にはルター、カントという巨人が思想的な背景を創った国という自負があるでしょうが..


どうでしょうか?私はかなり違和感を感じてしまいました(それが、”今”の差から来るものかもしれませんが)。


では、現在の日本人がこの歴史哲学講義より”今”を読む時は、どのように読むべきでしょうか?

たぶん、今を肯定するのか、否定するのか、は読み人によるでしょうが。そこに至るまでのものさしの使い方(主体性や精神的自由といった観点)や、過去の歴史から”今”を相対化していくというアプローチとしては、この本は十分に楽しめる本でした。
posted by 山崎 真司 at 20:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学、人生論

2008年09月16日

ソクラテスの弁明・クリトン

プラトン・クセノポン著
講談社学術文庫 880円(税別)
初版: 1998年2月

自殺予防週間ということで、ショウペンハウエルの「自殺について 他4篇」と同時に再読してみました。この本はプラトン著の「ソクラテスの弁明」と「クリトン」、そしてクセノポン著の「ソクラテスの弁明」が載っています。
ちなみに「弁明」はソクラテスが若者をたぶらかしているという罪状で訴えられた際の反論です。「クリトン」は有罪で死刑になったソクラテスに脱走を勧めにきたクリトンとソクラテスの対論となります。
以前、「弁明」を読んだ時は、ソクラテスが真剣に反論をしていたという印象だったのですが、再読すると全く印象が違って、反論するというより限定的な範囲において(つまり真実に対するソクラテスの立場を)主張のみしていて、全く反論や弁明をしていない、といった感じです。


ソクラテスは「死を免れるより、卑劣さを免れる方がはるかに難しい」といった主張をしていて、これは印象に残っていたのですが。
むしろ、「だってきみたちにはずっと前から分かっていたのではないかね。ぼくが生まれたその瞬間から、自然によって、ぼくに死刑が宣告されていたのだということがね」といった死へ向かう立場が”弁明”のポイントでしょうか。


そもそも、”生”と”死”はどちらがよいものなのか分からないのですが、もし”死”の方が”善”だとしたら、知人や友人に悔やまれながら”自殺”をしたソクラテスは本当に幸せだったのではないか、と思いました。

posted by 山崎 真司 at 22:12| Comment(0) | TrackBack(1) | 哲学、人生論

2008年09月01日

歴史哲学講義(上)

ゲオルグ・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル著
岩波文庫
初版: 1994年6月

”難解”として有名なヘーゲルの著書ですが。この本は、長谷川宏氏の翻訳が良いのか、元々読みやすいのかかなりサクサク読める一冊となっています。
あ、実はヘーゲル著書でなく、大学での講義内容をヘーゲルの死後にまとめたものですね、これは。


この本では、序論と第一部の東洋世界が収められていますが、序論ではヘーゲルの歴史観が述べられます。なお、この本での歴史は哲学的な意味での歴史となっています。

なお、ヘーゲルは”神の摂理”が歴史のうちにも存在するという立場で歴史を捉えています。また、各地域(中国、ペルシア、インド)といった地域の歴史を俯瞰していますが、そのときのポイントとしては、歴史の有無(例えばインドには神話はあっても歴史はない)、自由があるか(自由な思想がないとダメ)、倫理観の有無、といった視点で語っています。


この本を読んでいると、ヘーゲルが文化(思想?)というものがどうあるべきと考えているかは非常に分かりますが、そこに至る過程は一切説明がなく所与のものとして記述されています。また全体的に、ある摂理の元で歴史が進んでいること(基本的に正しい方向へ進んでいる)という思想が強く、またドイツ(プロイセン?)を強く肯定しているという背景が見え隠れする感が少し鼻につきますが...

逆に自分の歴史観にある偏見といったものを意識することができました。
 
posted by 山崎 真司 at 20:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学、人生論

2008年07月27日

まぐれ 投資家はなぜ、運を実力と勘違いするのか

ナシーム・ニコラス・タレブ著
ダイアモンド社 2000円(税別) 
初版: 2008年1月


タイトルは「まぐれ」ですが、何がまぐれと言っているのでしょうか?
全部です。
いや、ほとんど全部です。いや、多くの事柄のかなりの部分といったところでしょうか。


この本のポイントは3つでしょうか。まず、1つめは人間はある結果に対して運の要素をあまり考慮せず、何かの原因を探してしまう傾向の指摘でしょうか。

例えば、XXが大ヒットした時に、それは開発者の実力だったり、○○のおかげ、のように何らかの理由付けを求めてしまいます。これにより、ある程度は実力でのこりは運であったにも関わらず、「XXXを○○台売った男」とか、この○○台売ったのはA氏の能力に起因していると思ってしまいます。もちろんその要素はありますが、運の要素も多分に含まれているのではないか、というのがこの本の主張の最大のポイントです。


2つめには、稀にしかないことを無視してしまうことです。例えば、ある国の国債がアメリカの国債よりも金利が2%高いとします。これはアメリカの国債が債務返済不能にならないと仮定すれば、もう一方が簡単に計算すれば100/2 = 50で50年に一度債務返済不能になってしまう確率があるならばあまりいい国債と言えません。一方で50年に一度債務返済不能になる確率はあるでしょうか?

ある1年を見て、今の状況を見ればそれはなさそうですが、「それは分からない」といった大事件が発生する確率は十分にあります。例えば1900年代をみて、2回の世界大戦やブラックマンデーなどがありましたが、これらクラスの問題がまたあったとしても債務返済不能にならないでしょうか?たしかにブラックマンデーはともかく、世界大戦はもう起こらないという可能性もありますが、一方で20世紀では思いもしなかった事件が起こる可能性があります(例えば石油の枯渇や、宇宙への移民の開始など)。 


3つめですが、確率的に歴史を眺めるといった視点です。この本はサブタイトルが「投資家はなぜ、運を実力と勘違いするのか」となっていて著者は投資家なんですが、この著者の投資哲学から来た概念でしょうか。

この確率的に歴史を眺めるというのは起こらなかった歴史も考慮するということです。投資の世界において、例えば上がる確率が90%、下がる確率が10%といった場合でも、上がる場合の金額の期待値と下がる場合の金額の期待値を考慮しないといけないです。そして結果を見てパフォーマンスを評価するときでも、結果として上がったこと(もしくは下がったこと)のみで評価するのでなく、起こらなかったもう一つの可能性も考慮して判断を評価しないといけないということです。
実際に、人間はあることが起こるとその結果のみに注目してしまいますが、実際には判断の正当性を評価して、それは起こらなかった歴史を考慮しないといけないです(そうしないと、例えば90%の確率で10円あがり、10%の確率で100円下がるようなものの売買について、買う方がベターという判断になりがちです)。実際に、日常でもこのような起こらなかった歴史について考えながら、行動を判断するというのはとても刺激的な経験となります。


とにかく、この本は私が読んだ中では今年のダントツ一位の本でした。 


他の方の書評を読んで:

http://www003.upp.so-net.ne.jp/ikeda/taleb.html
 
こちらの書評はそのままといった感じでしょうか。既存の金融工学が、”科学的”なアプローチをしていて、正規分布でないものを正規分布と仮定した上で成り立っているといった問題を指摘している本といった読みでしょうか。


http://blog.livedoor.jp/sioyakioh/archives/455734.html

ただ、そういう人間と付き合いのある方はこの本を読むことを特に勧める。
その人の真の実力を測る判断材料のひとつとして。
副題にあるように、人は「運を実力と勘違いしやすい」のだ。
無論、最も読むことを勧めるのは運用やトレーディングに従事しているその人自身なのだが。汝自身を知れ、とはこのことである。

汝自身を知る、本なんですね...投資に限らず、自分のこれまでのいくつかの選択や創造について、運の要素が多分にあるのは認識していたのですが...投資家以外でも、自分を知る本として読むことができそうです。
そういえば、うちの兄貴が大学に受かったのは”まぐれ”と言ってました(たまたまヤマが当たった)、学歴によって第一印象が決まるならば、こんなベースにも”まぐれ”がありました...


http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50992418.html

この手のオビに飛びつく人もいれば、ドン引きする人もいるが、はじめに言っておくと、この帯は孔明の罠である。ドン引きする人こそ、本書を好きになれるだろう。実際、著者はこの手のアオリ文句を本書でバッサリ斬っているのだから。
 
このオビは読んだ瞬間ダメだーっ、と思いました。しかし、本書を読んでいくと、このオビ自体の否定をしています。その皮肉がいーなー、と思いながら興味深く読みすすめました。こちらのレビューの著者も同じ気持ちだったのでしょうか?


本書のメインディッシュは、カール・ポパーの半焼主義、失礼、反証主義 である。それが科学者の言葉ではなく、金融屋の言葉で書いたその部分こそ、出師の表なのだ。

 
たしかにこの本は、金融屋が書いた本ですが、この本は哲学者が書くこともできた本だと思いますが、むしろ金融屋こそが書くべき内容の本であると思います。実証主義でしょうか(大嘘)。


http://d.hatena.ne.jp/koiti_yano/20080211

面白い...書評とかでなくて、純粋にブログとして面白いです....書評じゃない...でしょうか...
そういえば、こちらのブログはRSリーダーでずっと読んでいるのですが、所属がROR団なんて不思議な団なんですね...(←プロフィールはRSリーダでは読めないから気づきませんでした)
posted by 山崎 真司 at 08:37| Comment(2) | TrackBack(0) | 哲学、人生論

2008年07月24日

理解とは何か

佐伯胖編
東京大学出版会 2400円(税別)
初版: 1985年11月


コレクション認知科学の2巻です。このシリーズの他のものは全て書かれたものだったのですが、この本は”理解とは何か?”というシンポジウムでの5人の講演を起こしたものです。

”理解”の一般論や、数学の学習について等が書いてありますが、一番面白かったのは解題の”人はどのようにして「他人の心」を理解するのか”です。ここでは赤ちゃんの実験を通して、”理解”について述べています。


具体的に最も興味深かったのは、「赤ちゃんは相手の立場に立って考えることができるのか」という実験です。これは、赤ちゃんに、例えばAさんが小さな箱にりんごを入れておき、Aさんがいない間にBさんが小さな箱のりんごを中くらいの箱にりんごを移して、Aさんが戻ってきて中くらいの箱(小さな箱)からりんごと出す、といったことをしてその反応から赤ちゃんがAさんが何を見えているのかを理解しているかを確認するといった実験です。

この実験によると、14〜15ヶ月くらいの赤ちゃんは、Aさんが何を見ているのかを認識しています。また、12ヶ月くらいの赤ちゃんは、他人を見る時に、他人の動きだけでなくその人がどこを見ているかといったことにも興味があるようです。


このような実験心理学的なアプローチはいいのですが、それ以外の”理解”は心理学だけでなく、哲学、言語学、脳科学といった要素があり、非常に難しい分野とは分かっていたのですが...

この本を読んでもあまり分からないことが分かったというか、それすら分からなかったというか、そのような印象です。いくつかのトピックは分かりつつ、そこから先が想像できないという点で、”理解”というのは本当に深い分野であるということだけが分かった一冊でしょうか。
posted by 山崎 真司 at 00:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学、人生論

2008年07月21日

新しいヘーゲル

長谷川宏著
講談社現代新書 700円(税別)
初版: 1997年5月


以前、ある知人に「山崎さんって、全然哲学とか読まないんですね」といったことを言われて驚いたことがあります。実は、その後でその知人が挙げたいくつかの著者については私は全く哲学者と思ってなかったのがあり、一方で自分は哲学っぽいものを読んだりもしてると思ってたけど、たしかにそれらが哲学なのかどうか分からなかったからです。


もちろんどれが”哲学”でどれが”哲学”でないか、といった定義には興味がありませんが、考えることは意味があるでしょう。


明らかに哲学者としてみなされるであろう人が何人かいるでしょうか。
・ソクラテス
・デカルト
・カント
・ヘーゲル

あたりは誰もが認める哲学者といっていいでしょうか?


この中では、ヘーゲルが一番手ごわそうなイメージがあります。ありますよね?


あれ?ないですか??私のイメージでは、弁証法といった手法には興味をありながら、ヘーゲルの哲学”体系”は難解に違いないと思ってました...

実際にヘーゲルの本をまだ読んでいないのですが、この本を読んだ上では、ヘーゲルの理性最上主義(これはデカルト以降の西洋哲学の伝統でしょうか)にプロテスタントが与えた影響というのが分かりました。こうした歴史的な背景というのはヘーゲルの本を何度読んでも読み取れませんし、同じ時期や同じ地方での著者の本や事件の解釈をする上で知っておくべき事柄でしょう。そういう点ではプロテスタントが社会や歴史に影響をどこまで与えたかといったことを事前に読んでおくとよかったのでしょうか。
これはプロテスタントにとっては神を最上と置いた上で自らが祈りを行うことで神とのつながりを持つ(神の存在が内発的な事項で定義される)といったことで、絶対的な真実としての神のトップダウンでなく、理性的な認識の上で神が存在するという考え方がベースにあるということでしょうか。


また、ヘーゲルが”美学講義”という本を出していたのは知っていたのですが、かなり興味が出てきました。

・古典芸術の彫刻では、主観的な内面と外形とがぴったり即応し、外形が内面を過不足なく形象化し、内面と離れて勝手な動きをすることがなかった。
・醜くゆがんだ外形をあえて造形することによって内面の真理に至ろうとするところに、精神の深さと強さがあると考えた。

この古典芸術というのは、文章上では、ギリシア時代の彫刻などをイメージしているのですが、現代芸術と近代芸術といった文脈でも捉えることができます。
また、醜くゆがんだ外形というのは人間の理性が無理矢理解釈を行ってしまうのでしょうか。こういったものは普段気づかないのですが、こういうのに気づくとたしかに美術を見る時には参考になります。
posted by 山崎 真司 at 23:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学、人生論

2008年07月10日

「わざ」から知る

生田久美子著
東京大学出版会 2400円(税別)
初版: 1987年9月


先日読んだからだ:認識の原点及び比喩と理解と同様にコレクション認知科学の第6巻となります。

この本は西洋的な学習と東洋的な学習を、心身二元論と心身一元論から読み解いた本であり、著者は「知識とは何か」というところから当初は組み立てたということですが、実際には「教育とは何か」を考えさせられた本でした。


日本の伝統芸能では、”見て覚える”という学習スタイルを取っていますが、西洋的にはピアノのバイエルのように系統立った学習プロセスがあったりします。また、学習においては、簡単な曲から順に難しい曲に移るといったことがありますが、日本の伝統芸能的な学習ではそのような段階性はありません。

つまり、日本式の学習では、「模倣」、「非段階性」、「非透明性」が特徴となります。この「非透明性」というのは例えば”ベストキッド”でミヤギ先生が、ともかくやってみろ、といったような学習をさせていたのをイメージしてください。


また、学習においては、外形的な”形”から、その意味も踏まえた”型”を習得して、その後に”間”を覚えます。この”間”というのは、”型”と”型”との間にある無のことです。例えばビリヤードでいえば、フォームやストロークでなく、待ち方や試合中の心の置き方などになるでしょうか。


この本のテーマはこのような”学習”が、失われているということでしょうか。


背景にはデカルト以降の心身二元論と、心は身体より上という前提があります。たしかに心というのはなんとなくすぐに変えられそうだし、例えばスイング理論さえしっかりしていれば(つまり頭でさえ分かっていれば)すぐにゴルフできるという前提も学習者にとってとても魅力的ではあります。

実際にビリヤードをやっていても、素振りや練習のようなことよりも、理論やコツのようなものをよく聞かれる気がします。実際には、そういったコツを他人に聞いている時点で、次のステップに進めないのですが。


もし、完璧なスイング理論と高い身体能力があっても、実際にはゴルフの”形”は得られても、”型”や”間”の習得はできません。一方、実際の模倣を通した学習では、”形”だけでなく、それ以外のことを同時に学習することができます。これは実際には模倣だけでなく、模倣を通じて、その意味を問うということを繰り返すからです(逆にそれをしない人はそこまで)。


このような理論重視は教育においてもいえます。例えば、農業について学習する際に農作物の育て方といった理科の授業と、農家の生活という社会の授業をやることで、予め規定したポイントとなる”知識”を学習することはできますが、実際に畑で作物を育てることをすると、教師が規定していた”知識”以外のことを学習することができます。


このように教育から、”間”のような深い部分までを学習する機会が失われたということは明示的には述べていませんが。たしかに、「わざ」の学習という視点から突き詰めると、現代の効率化というものは多くの学習機会を捨ててしまったんだな、と思わざると得ませんでした。

 
 
元々はスポーツなどでの学習と認知心理といったものを考えるために読み始めたのですが、どうやらそんなレベルの本ではない大作に巡り合えたな、と感じました。
posted by 山崎 真司 at 23:27| Comment(2) | TrackBack(0) | 哲学、人生論

2008年07月02日

比喩と理解

山梨 正明著
東京大学出版 2400円(税別)
初版: 1988年3月

 
先日読んだからだ:認識の原点と同様にコレクション認知科学の第5巻となります。


比喩について考えたことありますか?私はありません。


この本は、認知心理学的に比喩を捉えた本かなと思って読んでみたのですが、むしろ言語学の本です。

比喩について、例えば

・君はぼくの太陽だ
・彼女は母親のようだ
のようにそれぞれ文脈がなくとも意味が分かる比喩と意味が文脈に依存する比喩といった使い方や、

・硬い音色
・あまい声
のような、別の感覚(触覚や味覚を聴覚表現に使ってる)の表現で意味を補足するといった使い方などを分類・分析しています。


これまで、比喩というものについて考えたことはなかったのですが、比喩というのは言語体系(ラング)からなる文で表現できる意味空間を、比喩を使うことによってそれぞれの単語からなる原義的な意味とは違う意味空間を指し示すことができるということでそしょうか?

つまり比喩は意味空間を、より高次まで広げることができるということでしょうか。また、こうやって考えると比喩というのは、ある意味を指し示すとしても、個々の発話(パロール)においてのみ解釈されるものということでしょうか?


また、比喩について考えてみると、その言語学的な側面だけでなく、比喩を使うことで相手が理解していない概念や技術を漠然と理解させることができるという面も興味がでてきました。ただ、この本では、そのような学習においての比喩表現についてはあまり触れられていません。

 
 
 
posted by 山崎 真司 at 22:49| Comment(2) | TrackBack(0) | 哲学、人生論

2008年06月15日

からだ:認識の原点

佐々木 正人著
東京大学出版 2400円
初版: 1987年11月

 
コレクション認知科学の第7巻です。実はこのシリーズは16,7年前に読んでいたので、この本も再読かもしれません....が、何も覚えてません^^;;;;;;; 1,2巻は読んだのは確実なのですが、7巻は読んだのかどうか....
というわけで、先日読んだ運動イメージと自律反応が体育学的アプローチとすると、この本は認知心理学的アプローチと言えます。


認知と体というのは密接な関係があり、人間の認知には体が必要ということは言われています。

何故、イメージというのは視覚的なのでしょうか?一方で、視覚というのは身体がないと完全には把握されません。触覚がベースにならないと完全なイメージが把握されないと思います。これは鏡がある場所を思う浮かべてそれが鏡を把握することを想像すればいいかと思います。
また、認識と身体の関係では”空書”(くうしょ)という概念について書かれています。”空書”というのは主に漢字圏(アジア)で行われる綴りや漢字を思い出すときに手で文字を書くポーズをするアレです。空書が出来ないと、思い出す能力が下がります。
ヨーロッパ圏では行われないものだそうです。この”空書”には2パターンがあります。目を閉じて手を空中に振るパターンと、指を脚やもう一方の手に書いてそちらを見るようなパターンがあります。”空書”は漢字の学習などがある程度進んだ小学校中学年程度から見られはじめるものです。
認知に身体が必要ですが、同時に身体が学習にも影響を与えているということです。


 

posted by 山崎 真司 at 22:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学、人生論