2010年11月28日

進化論の射程

エリオット・ソーバー著
春秋社
初版: 2009年4月(原著は2000年)






アメリカ科学哲学協会の会長でもある(らしい)エリオット・ソーバーが進化論をテーマに書いたものです.原題は"Philosophy of Biology"(生物学の哲学)です.

内容としては

1.進化論とは何か
2.創造論
3.適応度
4.選択の単位の問題
5.適応主義
6.体系学
7.社会生物学と進化理論の拡張

という章立てになっており,基本的に別々に読めるようになっています.
(もちろん,1章がわからなければ適応度や選択の単位はわからないでしょうが)

創造論については,「ある人が非科学的な態度をとることと,その人の擁護する理論がまるで科学的命題でないということはまったく別である」という上で,そもそも創造論者の態度や創造論の反証可能性のないことでなく,別の理論によって創造論を論破しています.

また,この本は進化論に関しての本というよりも,進化論を中心とした生物学において,哲学がどのようなものであるのか,という本です.

例えば,「適応主義に反証可能性がないからといって,科学的な言明でない,ということでない.むしろ,それは科学にはポパー哲学で語られるよりも,より広い内容を含むということである」といったように,反証可能性の有無のみで科学的であるかどうかを判断すべきでないといったことが頻繁に語られています.

このように進化論という蓋然性(?)の高い分野において推論や確率をどのように考えるのかといったことが語られています.

また,動物の種とは何か,それには本質的なものがあるのか,人間が便宜的に作成した規約的なものなのか?また,社会生物学が,我々の倫理において何を語るのかといったことについて述べています.


もともと読み始めたときは,”進化論の本”だと思っていたのですが,原題が"Philosophy of Biology"とあるように,生物学という世界において哲学はどのようなものであるか,といった本でした.むしろ,私は進化論という複雑な(少なくとも物理学のように確定的でない)学問を中心にすると,哲学はどのようになるのか,という本として読みました.
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2010年06月03日

道徳形而上学原論

カント著

岩波書店 560円(税別)

初版: 1960年6月(原著は1785年)











カントの道徳についての入門書です。いわゆる三批判の一つ「実践理性批判」の入門書でもあるのですが、この本自身も道徳についての強力な解説書になっています。



カントは道徳の原理を経験的なものでなく、理性的なものに求めます。これは経験はあくまでも主観的なものであるためで、普遍的な道徳は理性的(つまり経験を超越したもの)でなければならないためです。



中心となる概念のひとつは仮言的命法と定言的命法です。仮言的命法というのは「Aするためには、Bしなければならない」というようなものです。この命法では、道徳概念がBとした場合に、むしろAということを行うことを目的としてしまっています。これは道徳概念にそぐわない(目的がBでなく、Aになっているため)、そこで道徳概念には定言的命法として「Bしなければならない」といった形式をカントは提示します。


この定言的命法は、「その格律が(他者にとっても)普遍的になるような格律でなければならない」、また「他の理性的存在を手段でなく、目的自身とみなさなければならない」といったことを述べています。

また、このような定言的命法に従う理由としては「行為に道徳的価値を与える動機は、道徳法則への尊敬に他ならない」と述べています。



たしかにカント哲学は一文が長く読みづらいところもありますが、この道徳形而上学原論はその中ではかなり読みやすく、また、現代の倫理学の基礎を伺うことができる一冊だったと思います。

posted by 山崎 真司 at 23:34| Comment(3) | TrackBack(0) | 哲学、人生論

2010年03月21日

ビーイング・グッド:倫理学入門

サイモン・ブラックバーン著
晃洋書房 2200円(税別)
初版: 2003年10月

 


倫理について最近、ちょっぴり興味があるので読んでみました。倫理についての言説は「自分がやられたら嫌なことを他人にはするな」ということが最低レベルとしてありそうでが、それではどこまでの言説があるのでしょうか?


そもそも、一体、倫理とはどのようなものでしょうか。直感的には倫理というと、以下の問題を含んでいそうです。

  倫理とは、何か?倫理は結局は各個人の信念にすぎないではないのか?
  倫理とは、何か?倫理は結局は社会の慣習のうちで規定され、普遍的なものなどないのではないか?
  倫理とは、個人を束縛しないのか?それは自由と両立するか?

といったものがあります。
 
ブラックバーンが述べている倫理としては以下のポイントを含みます。
 ・倫理というのは結局は利己的なものにすぎないのではないか(自分がどう思われるかを意識しているのではないか)という問題があります。
 
この件については、二人の人物が慈善事業をしていたら、そのお金が飢えた貧者でなく、主催者の懐に入っていたという報道があったときに、この二人はそれぞれ、「そんなニュースは聞きたくなかった、そんなことを知りたくなかった」という怒りを覚えることもあれば主催者に対して憤慨することもあります。我々は前者のようにも後者のようにも振舞うことができます。これがひとつの回答になります。
 


・倫理は社会の慣習の問題ではないか。

この件については、1つめの論点は、性別、身分、人権、宗教を理由にした弾圧に反対する時、局地的な西洋の基準を「押し付けている」だけだという意見の力をそぎ、これは”押し付け”や”社会の慣習”ではないということをある程度言えます。
 
2つめの論点は、物事には「である」という属性を含むが、「であるべき」という属性について議論しないという理
由はどこにあるのか、ということになります。
ここで、ジョン・ロールズの主張している(らしい)「無知のヴェール」の背後から原理を見出すことが必要という主張がありそうな倫理原理と言えそうです。自分が社会的に、金持ちになるか貧乏人になるか、男性か女性か、雇用主か労働者か分からなければ、各集団に偏らない正義原理を採用することです。視点を現在からでなく「我々の社会的立場が決まる前にルールを作るとしたらどうするか?」ということです。ケーキを切り分ける時に、切った人が最後に取るルールのようなものでしょうか?
 


倫理がどういうものであるか、ということは分かりませんが、たしかに倫理というのは相対的なものでなく、絶対的なものとして規定できるという可能性はありそうです。

 
 
余談ですが、哲学者のポパーと心理学者のアドラーの挿話というのが面白かったです。ポパーがある事例を話すと、アドラーはその事例について、躊躇なく去勢不安、父への嫉妬、母と寝たいという欲望と宣言した。アドラーがいい終えると、ポパーはどうしてわかったのかと聞いた。「こういった例は1000回も経験しているからだ」とアドラーが答えて、ポパーは「するとこの新しい事例で、あなたの経験は1001回目になるわけですね」と答えたそうです。
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2010年03月09日

哲学者は何を考えているのか

ジュリアン・バジーニ、ジェレミー・スタンルーム編
春秋社 3200円(税別)
初版: 2006年5月(原著は2003年)

 

 
雑誌に掲載された様々な哲学者達へのインタビュー集です。哲学者達というのは、E.O.ウィルソン、リチャード・ドーキンスやアラン・ソーカルなどの非哲学者を含むからです。
 
この本の冒頭でも述べられていますが、本来哲学者に限らず専門家というのは大した根拠もないことを言わないものですが、このインタビューという形式によって、そのようなより”生の思想”に近いものがこの本では出てきます。
 
章立てとしては、「ダーウィンの遺産」、「科学」、「宗教」、「哲学と社会」、「形而上学」、「言語」というまとまりになっており、それぞれ3〜5人のインタビューからなっています。ひとつづつのインタビューは20ページ前後と読みやすく、それぞれがある課題を提出しています。


ロジャー・スクルートンの”芸術の価値”と題されたインタビューが面白かったです。スクルートンは感傷性について、「外部の対象に向かって発せられているように見えながら、実際には、それは見せかけにすぎず、その関心の真の焦点は、ほんとうは観察者自身にある、という点に存している」と述べており、これは「『なんて悲しいんでしょう』という対象に対する思考ではなく、むしろ『この対象について「なんて悲しいんでしょう」と感じているこの私の感覚は、なんて洗練された胸を打つものなんでしょう』というたぐいの[自分自身に向けられた]思考なのです」としています。

 
もちろん作品の鑑賞の仕方に正解はありませんが、作品を鑑賞する際に”作品に向けているはずの眼差し”が、『”作品に向けている眼差し”を織り込んだ自分』に向いているという視点は斬新でした。たしかに、メタ的な解釈を要求する作品では、このような”解釈する自分”を踏まえて解釈することがありますが、一般的な作品に”胸を打たれる”時にこのような自分への眼差しは気づきませんでした。


また、キリスト教哲学者のリチャード・スウィンバーンの”自由と悪(イービル)”については新しい気づきがありました。そもそも、神学や倫理学についてはほとんど考えたことがなかったのですが、”悪”が必要である場合がある(いわゆる”必要悪”というのでなく)ということです。これは”悪”が我々の”善”を発揮するために必要ということになります。

 
もともと”悪”というのは、神学において”神がいるならば、何故、悪(例えば戦争で子供が死ぬこと)があるのか”という問いに対して回答する必要があります。たしかに、”悪”とは何なのか?”悪”は必要なのか、ということに対して考えることは、”戦争”について考えることでもあります。これまで”悪”や”善”について考えたことなどありませんでしたし、”思考の焦点”として活用できそうな内容でした。
posted by 山崎 真司 at 21:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学、人生論

2010年02月16日

老子

岩波書店: 900円(税別)
初版: 2008年1月 
 


道教(タオイズム)と知られるものです。韓非子や論語は読んだことがあったのですが、老荘は読んだことがないので読んでみました。ちなみに老子は全81章からなっていますが、1章は数行レベルなので、意外とあっさり読めます。解説を除くと20〜30ページ程度の分量でしょうか?


気になるところを何点か書いてみます。口語訳は適当かもしれません。


1章より、
道の道とす可きは、常の道に非ず。名の名とす可きは、常の名に非ず。

 明示できるような道は、本当の道でなく。これですと明示できるような名前は本当の名前ではない。


8章より、
上善は水の若し。水は善く万物を利して争わず、衆人の悪む所に処る、故に道に畿し。

最上の善は水のようなものだ。水はあらゆるものに利しながら争うことなく、衆人が嫌いな低いところにある、だから道に近いのだ。


11章より、
故に有の以て利を為すは、無の以て用を為せばなり。

だから、形あるものは、形が無いところが働きをするためである。


56章より、
知る者は言わず、言う者は知らず。

知者は多くを語らず、多く語る者は知者ではない。


雰囲気が語られているだけですが短い言葉なので、老子の思想が分かります。老荘の思想の解説本といったものもいろいろ出ているでしょうが、読みやすいのでここから入るというのもありかと。

posted by 山崎 真司 at 22:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学、人生論

2009年12月25日

解明される意識

ダニエル・デネット著
青土社 3800円(税別)
初版: 1998年1月

 
 

 
 
この本は、タイトル通り意識はどこにあるのか、そしてそれは解明されたという本です。注とあとがきを入れると約600ページ2段組という大著です。


この本のキーワードとしては、自然主義、デカルト劇場(カルテジアン劇場)、心身問題とクオリア批判といったところでしょうか。


自然主義というのは、この本が前提としているのが、1.魔法のヴェイルを認めない、2.感覚麻痺を装わない(行動主義に陥りすぎない)、3.経験主義の細部に囚われない、といったことです。この上で、「すべてを完備した経験的に確証済みの理論よりも、むしろ理論のスケッチをもってよしとする」ということです。


デカルト劇場(カルテジアン劇場)というのは、人間の中には中央演算装置(CPU)のようにすべての情報が集中する場所です。直感的には、意識にはこのように集中した場所がというイメージですが、デネットはこのようなイメージでなく多元的草稿モデルというモデルを提案しています。この多元的草稿モデルというのは、人間の意識を共有メモリとしてみると、その共有メモリを複数のバーチャルマシンが書き換えていくようなイメージです。これは、認知心理学的な実験から、デカルト劇場よりも多元的草稿モデルの方がより上手く説明できるということになります。


心身問題は、いわゆるデカルト的二元論についてです。デカルト的二元論は、上のデカルト劇場と同じで、人間には肉体とは別に意識があるとする直感についてです。クオリアというのは、例えば夕方のオレンジ色を見た時に、綺麗な夕焼けと思うような感覚のことです。この二元論的な意識やクオリアについては、上記の自然主義という点で否定されます。私の解釈では、二元論的な意識やクオリアは他者から観察不可能ならば考慮する必要がないし、むしろこれらの形而上的なものを前提とすることで、意識についての検討が不可能になってしまうということがあります。

 
他の方の感想を読んで:
 
http://yattemiyou.net/blog/archives/2006/08/post_185.html
 
非常によくまとまっていて、かつ面白いです。
本文とかあんまり関係ない気もしますが、ここで参照されていた以下のページは非常に面白かったです。オススメ。しばらく待つとアプレットが表示されます。
 
http://www.cs.ubc.ca/nest/imager/contributions/flinn/Illusions/ST/st.html
 
なんか、池谷さんの本とか思い出しました。
posted by 山崎 真司 at 23:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学、人生論

2009年10月04日

暗黙知の次元

マイケル・ポランニー著
ちくま学芸文庫 900円(税別)
初版: 2003年2月

 

 


有名なマイケル・ポランニーの著書で、原著は1967年で、この文庫本は新たに訳出したものです。

マイケル・ポランニーは哲学者です(他にもいろいろな仕事があります)が、元々は医学博士、化学博士で、物理化学教授から社会科学教授に転じたという経歴です。また、カール・ポランニーの弟であることも有名です。


この本では、”暗黙知”という概念について考察しています。これは下位レベルと上位レベルの間にあるものということになります。たとえば”チェスのルールを知っている”ことと、”チェスがうまいこと”の間にはギャップがあり、チェスのルールはチェスの勝敗をコントロールする諸原理とは違います(実際にはルールの上に成り立ってはいるのですが...)。このようなギャップが”暗黙知”となります。


”暗黙知”について、様々な方向から考察を行っていますが、読んでいると若干違和感を感じます。この違和感は、他者の理論や思想との相関がなく自説を説明しているところにあるかと思いました。

 
 
最初のほうにも述べられていますが、暗黙知の次元はゲシュタルト心理学の影響を強く受けており、ゲシュタルト心理学の哲学的説明とも読めました。
posted by 山崎 真司 at 07:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学、人生論

2009年09月01日

最小合理性

クリストファー・チャーニアク著
勁草書房 3300円(税別)
初版: 2009年2月(原著は1986年)

 


 

人間の合理性というのはどこまでのものなのでしょうか。
文学や心理学においては人間が合理的でないというのは当たり前のこととして受け取られているし、経済学でもカーネマンとトヴァスキーのプロスペクト理論が人間の非合理な現象について述べています。


哲学においては、しばしば人間は理想的な合理性を有しているとみなされますが、この本では人間の合理性(演繹能力)が限定的であるという”最小合理性”について述べています。


たとえばN個の信念集合を持っている人が、新しい信念を受け入れる時に、推移率を考慮すると無矛盾であるためにはNP問題を解決する必要があります。これは人間が完全に合理的であるのは、計算量的に困難と考えられます。

また、実際の人間の長期記憶と短期記憶の差異を考えると、長期記憶上の信念集合に無制限にアクセスできるのかといった問題もあります。


このように、計算量理論と認知心理学的な記憶の知見を哲学にフィードバックしようというのが本書です。


また、このような”最小合理性”という概念を立てることで、”責任能力”や”知性の限界”についての知見も得られます。

なお、私は知らなかったのですが、ハーバード・サイモンが”限定合理性”という概念を提唱していました。この関係は分かりませんので、もう一度読み直してみないと...
posted by 山崎 真司 at 22:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学、人生論

2009年07月13日

形而上学 (上)


 

アリストテレス著
岩波書店 840円(税別)
初版: 1959年1月


論理学、弁論術、自然学などについて、西洋・東洋共に大きな影響を与えたアリストテレス(BC384-322)の、そのうちでも第一の学問である形而上学についてまとめたものです。


読んでいて思ったのは2つのことです。

1つめは、アリストテレスの分析手法です。
これは自然学や分類学とも絡んでいるかもしれませんが、物事を非常に細かく分析しています。

”ある”ということについても、「私がある」というのと「私は人間である」といった場合には、”存在”と”属性”で意味が違います。

また、「私が病気である」と「私が人間である」という場合にも、一時的なものか、普遍的なものかの違いが、
「この小麦は1Kgである」や「虹は七色である」のように量や外観についてや、主観的な属性や客観的な属性といったものがあります。

実際には、このような”ある”の分類が延々と続いています。

考える人たちには、このように細かく分析をし続ける人と、ある思想を提供する人がいますが、アリストテレスは完全に前者になるでしょうか。
細分化して考える人というのはとても少なく、本を書いている人の多くは一方的に思想を主張しています。
このようにものごとを徹底的に細かく刻んでいる人というのは、非常に数が少ないだけに非常に参考になります。

2つめは、始動因と目的因についてです。
始動因というのは原因(そしてその原因、そしてその原因、...)といった方向の最終原因です。
目的因は目的(そしてその目的、そしてその目的、...)といった方向の最終目的です。


物について(特に道具)のカテゴリを考える場合には、始動因で説明できるものと目的因で説明できるものがありそうです。
たとえば、椅子というのは人が座るため(目的因としての作用)の器具といった形で定義できそうです。
一方、人間や世界について考えるためには、目的因でなく、始動因的に考える必要がありそうです。

ちなみに、この本を読んだ知人は始動因が1つであるということに違和感を感じていました。
私の感覚は世界はビッグバンができて、そのあとラプラスの悪魔的世界観(神はさいころを振らない)といった世界観が一般的と考えていたのですが...

よく「なぜを5回」とか言いますが、なぜを問い続けて無限後退しないためには始動因である”神”が当時は必要だったのかもしれません。
現代人はおそらくビッグバンに続く宇宙の生成と、原始のスープや自然淘汰で始動について説明をすると思いますが。

一方、目的因については”善”が目的になるということですが、現代人にはこの目的因的観点は喪失してしまったような気がします。
だからといって、目的因が必要とか、”善”のために、ということではなく、2300年前のフレームワークでなく、今の時点でゼロから積み重ねることが大事だと思います。


また、普段の思考においても、原因と結果というと直近のものを想定しそうですが、始動因と目的因ということを加味するとより世界の理解が深まるかもしれないと思いました。

posted by 山崎 真司 at 20:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学、人生論

2009年06月24日

ソフィスト列伝


 

ジルベール・ロメイエ=デルベ著
白水社 文庫クセジュ 951円(税別)
初版: 2003年5月初版


ソフィストって知ってますか?

詭弁家(きべんか)と訳されることもある、古代ギリシアを中心とした思想家のことです。
思想家というよりも、「本当のことも嘘のことも、どちらでも説得してしまう」人たちというイメージでしょうか。


こう聞くと、間違った説得術に長けた人たちというイメージですが、実際にどうなのでしょうか?

現代においては、実はこのような説得術をウリにしている人たち(「5分で誰でも説得できちゃう方法」みたいな本や講座)もいるようですが...


ソフィストは、プラトンによって非難されてきた思想家で、(プラトンの書いた)ソクラテスとの対話の中でしばしば出てきており、「お金を払って、物事を教えている」、「教えられないことを教えたと称している」といった非難を受けています。

では、ソフィストはいったい、自分を弁護する一派の書物が残っていなくて、非難する一派(プラトンの)書物が残っているために悪いと言われているのでしょうか?
そして、実際の彼らの思想はどのようなものだったのでしょうか?


この本で取り上げられているソフィスト全部で8人で。
プロタゴラス、ゴルギアス、リュコフロン、プロディコス、トラシュマコス、ヒッピアス、アンティフォン、クリティアスです。

もちろん、彼らのそれぞれが違う思想を持っていて、まとめて語ることはできず、それぞれのソフィストの主張を現存するテクストから推測しつつ述べています。


たとえば、ソフィストでもっとも有名なゴルギアスについては「事物は認識不可能である、少なくとも我々にとっては」といったことを述べており、言葉と事物の差異について指摘し、言葉の力といったことを主張しています。


また、次は

 

 

からの引用ですが、ゴルギアスは
「神々については、それらが存在するということも、存在しないということも、私は知ることができない。
なぜなら、それを知ることを妨げるものが数多くあるのだから。
事柄が不明確であるのに加えて、人生は短いのだから」

と述べています。
また、文を祈願文、疑問文、応答文、命令文の4つに分けたのもゴルギアスです。

結局、ソフィストとは思想が歴史に埋もれていて、悪評だけが残った思想家だったということでしょうか。
古代ギリシアというと、すぐにプラトンやアリストテレスと考えてしまいますが、他にも残っていないだけで偉大な思想家がいたんですね。

上で述べたのディオゲネスの「ギリシア哲学者列伝」もいいですが、
この本では、ソフィストの思想が分かりやすくまとまっていて分かりやすいです。

これらの古代の思想家の思想を知ることが、どのように現代の私に結びつくかは分かりませんが...
posted by 山崎 真司 at 19:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学、人生論