2012年10月28日
名指しと必然性
メートル原器というのがあります。今は1メートルの定義は光速から定義されていますが、以前はこのメートル原器が1メートルの定義でした。
それでは、”1メートル”が、今の1メートルであるのは必然なんでしょうか?
「メートル原器は1メートルの長さである」
という文章にはどのような意味があるのでしょうか?そして、ここから何を言えるのでしょうか?
これが、本書のタイトルの「名指しと必然」につながります。
「メートル原器は1メートルの長さである」
という時、メートル原器は1メートルの定義なので、この文はアプリオリに真であることが分かります。一方で、「メートル原器は1メートルの長さである」の1メートルが299,792,458分の1光秒であるということは、必然的ではありません(たまたまメートル原器がその長さだったにすぎない)
つまり、「メートル原器は1メートルの長さである」という文は、アプリオリに真なのですが、意味的には必然ではありません。「A = B」という文において、AからBは必然ではないのです。
アリストテレスはB.C.384に生まれた
アリストテレスはB.C.322に死んだ
アリストテレスはアレクサンダー大王の教師だった。
アリストテレスはプレトンの弟子だった。
アリストテレスは「ニコマコス倫理学」の(事実上の)作者である
アリストテレスは西洋史上最も偉大な哲学者の一人である。
といった言説があります。これらはすべてアリストテレスの持っている特性です。すると、「アリストテレス」とは何かを考える時に、これらの事実の総体(束)こそが「アリストテレス」であると考えることができます。つまり、「アリストテレス」はアリストテレスに関する事実の束で置き換えることができるというのです。このような考え方は、ラッセルやフレーゲの考え方です。しかし、上のメートル原器の話は、「A=B」という定義はアプリオリであっても、必然でないことを示しています。つまり、「アリストテレス」をアリストテレスに関する事実の総体で置き換えることはできないことを意味します。
その代わりにクリプキは、アリストテレスを固定指示子で置き換えることを提案します。この固定指示子というのは、何かを名指す(namingする)したものです。このような固定指示子は、「言葉を意味で置き換える」(とでもいうようなこと)が出来ないことを示します。
それまでの分析哲学が唯名論的であり、定義を分析するだけで述べられることがあるとしていたことに対して、必然的・偶然的という概念を組み入れることで、”名前を属性への置換する”ことを制限したということでしょうか。
ちなみに分析哲学講義では、この”名指しと必然性”を分析哲学の前期と後期を分ける分水嶺と位置づけています。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/59597664
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。
この記事へのトラックバック
http://blog.sakura.ne.jp/tb/59597664
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。
この記事へのトラックバック
ヴィトゲンシュタインいいですよねー。僕もその辺うろうろしながら、たまに手を出してみてます。
この本は読んだ直後は正直微妙...と思ってたのですが、読書会の課題本に取り上げていて他の人と議論する中でちょっと楽しくなってきた本です。しかし、デイビッドソンの本を読んだ時も思ったのですが、本の射程が一見狭いので、わくわく感がありませんでした^^;;(しかし、その結論の延長はいわゆるジワジワくるといった感じでしたえ)
また山崎さんらしいセレクションですね。
読んでみようとは思いながらも積読の一つです……。
まぁ、どちらかといえばこういうタイプの本が楽しいですねー。といっても、名指しと必然性は、読んでも良さがあんまり分からなかったです^^;;
この本がどういうものであるのかを読書会で話し合って、少しだけ意義が分かったような気がしてます...気のせいかもしれませんが^^;;;