ロラン・バルト著
筑摩書店 1000円(税別)
初版: 1996年1月7日
内容:
ロラン・バルトの日本についてのエッセイ集です。もともと1966年に日本に訪れたことを書いています(Wikiより)
箸、パチンコ、俳句、禅など日本の様々な内容について3〜7ページくらいで語っています。
感想:
表徴というのは、シンボル(象徴)のことだと思い込んでいたのですが、原書ではシーニュ(記号というのが一般的な訳?)の帝国というところです。
内容は日本についてのエッセイですが、西洋では「あるもの」には意味やストーリーがあって明確に何かが決まっているのに、日本では背景が曖昧なままに表現がある、というようなことです。
つまり、西洋ではシニフィアンに対するシニフィエが明確にあるのに、日本ではシニフィエがない(指示対象の空白が一部ある)ままでシニフィアンがあるといった感じでしょうか。俳句においては、このシニフィエの空白部分が”味”になっているのかな、ということを今更ながら感じました。
文中の「意味の疎外」というテーマでは、禅において、「これはAである」、「これはAではない」、「これはAであり、同時に非Aである」、「これはAでなく、非Aでもない」、こういう4つの命題に捉われてはいけない、と書いてありました。これも、空白を残すという日本の文化でしょうか。ちなみに、私は禅も仏教も知らないので、これが一般論なのか、ロラン・バルトの指摘なのかは知りません。
また、この本を読んでいて思ったのは、ギリシア的な論理では、A、「Not (Not A) = A」、「A->B かつ B->C ならば A->C」といった論理が展開されます。
A->B (の確率が80%)
かつ
B->C (の確率が80%)
なので、
A->C (の確率が64%)
↑これが100%なのが西洋的、100%でない含みがあるのが日本的
このようにA->Cでなくて、A->Cの確率が100%でない、といった空白が、それこそ日常の各所作や思考においてあるのが日本文化です、という内容と読みました。