2007年08月21日

表徴の帝国

ロラン・バルト著
筑摩書店 1000円(税別)
初版: 1996年1月7日

内容:
ロラン・バルトの日本についてのエッセイ集です。もともと1966年に日本に訪れたことを書いています(Wikiより) 
箸、パチンコ、俳句、禅など日本の様々な内容について3〜7ページくらいで語っています。


感想:
表徴というのは、シンボル(象徴)のことだと思い込んでいたのですが、原書ではシーニュ(記号というのが一般的な訳?)の帝国というところです。

シーニュ=シニフィエ(意味されるもの)+シニフィアン(意味するもの)ですが、本文中では表徴はシニフィアンとして扱われることが多いです。
内容は日本についてのエッセイですが、西洋では「あるもの」には意味やストーリーがあって明確に何かが決まっているのに、日本では背景が曖昧なままに表現がある、というようなことです。
つまり、西洋ではシニフィアンに対するシニフィエが明確にあるのに、日本ではシニフィエがない(指示対象の空白が一部ある)ままでシニフィアンがあるといった感じでしょうか。俳句においては、このシニフィエの空白部分が”味”になっているのかな、ということを今更ながら感じました。


文中の「意味の疎外」というテーマでは、禅において、「これはAである」、「これはAではない」、「これはAであり、同時に非Aである」、「これはAでなく、非Aでもない」、こういう4つの命題に捉われてはいけない、と書いてありました。これも、空白を残すという日本の文化でしょうか。ちなみに、私は禅も仏教も知らないので、これが一般論なのか、ロラン・バルトの指摘なのかは知りません。


また、この本を読んでいて思ったのは、ギリシア的な論理では、A、「Not (Not A) = A」、「A->B かつ B->C ならば A->C」といった論理が展開されます。

ただ、日本ではこの論理に空白があって、これを数式で仮に表すと(ちなみにこの論理はいわゆるファジー論理ですね)、

A->B (の確率が80%)
かつ
B->C (の確率が80%)
なので、
A->C (の確率が64%)
        ↑これが100%なのが西洋的、100%でない含みがあるのが日本的

100%でない、この隙が日本的といったところでしょうか。


このようにA->Cでなくて、A->Cの確率が100%でない、といった空白が、それこそ日常の各所作や思考においてあるのが日本文化です、という内容と読みました。

 
 
posted by 山崎 真司 at 21:33| Comment(0) | TrackBack(0) | その他、一般
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