2011年11月20日

城 (新潮文庫)
城 (新潮文庫)
posted with amazlet at 11.11.20
フランツ カフカ
新潮社
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カフカの未完の大作です。審判や変身と同じ世界観ですが、これはユダヤ的な世界観でしょうか。つまり絶対的な律法の世界観です。キリスト教的な”赦し”がある世界ではなく、畏敬の対象である圧倒的な支配する力です。

これは、教会の塔にも似た城という形で、主人公Kの前に表れますが。実際には眼前に現れるのでなく、この城の見えない支配の力が主人公Kを圧倒します。ちなみにKはもちろん、カフカのKでしょうが、私は読みながら何故だかキルケゴールをイメージしてました。いや、この重々しい香りと方向性は違うかもしれないが漂ってくる宗教臭が似ているからでしょうか?

このK以外の登場人物は、すべて職業という形でラベリングされたものです。それぞれがどこかおかしいけど、それぞれの視点としてはまっとうというキャラとKが繰り広げるドタバタコメディーなのですが、実際にはメタ的な視点でのコメディーであって、全体的には鬱屈とした前に進まない感じがこの城の特徴です。


別の視点からこの本を読むとすると、ミシェル・フーコーのパノプティコンといった視点なのでしょうか。まぁ、フーコー嫌いなんでアレですが、圧倒的な監視の力という絶対力があたかも神の偉力のように隅々まで行き渡っています。そして、主人公であるK以外のすべての村人も、監視されていると同時に、監視する主体として城というシステムに組み込まれています。この世界観を読み取るために、監獄の誕生を読むか城を読むかといえば、こちらの方が面白いと思います。小説と現代思想を並べるとその筋の人には怒られそうですが...


この小説は、読んでもグツグツグツといった感じでカタルシスがほとんどありません。ここが好みの別れるところだと思います。
posted by 山崎 真司 at 07:22| Comment(9) | TrackBack(0) | 小説
この記事へのコメント
某読書会で読まれたのですね。お疲れ様でした。
そして某マイミクさんとこの話題について話してたので実にタイムリー。
僕はカフカがユダヤ教徒だということもあって、神かなぁ、と思ったのですが……^^;

しかしフーコーといい、フロイトといい、僕の嫌いな思想家はことごとくざーさんさんが嫌いですよねぇ……orz
まぁユング自身は僕も胡散臭いと思ってますけどね。
Posted by 有沢翔治 at 2011年11月20日 08:40
僕もこの城は神だと思いました。というか、それが標準解釈になるでしょう、と。

そして、フーコーは監獄の誕生しか読んでませんが、どうにもダメなんですよ...主張は面白いし、歴史の説明の部分はいいのですが、論理展開が身体にあわなさすぎて..orz
普通の文章を書けばいいのに...orz

フロイトは別にそれほど嫌いじゃない(というか中立)のですが、フロイト的の主張したものとその亜流を”事実”として受け入れている人がいっぱいいるのが苦手でして...

レトリックとしてのフロイト、ストーリー解釈のツールとしてのフロイト(とユング)というのは別にいいのですが...
就職面接で動物占いを取り入れていた会社の話を聞いたのと同様な” (w"な感覚と、有名だから事実といって受け入れる安直さと背景にあるスピリチュアリティへの憧れに異議をとなえたくなっちゃうのです。
Posted by 山崎真司 at 2011年11月20日 09:16
僕は、この物語の舞台になっている村が、一つの有機的なもの、例えば「身体」に当たるんじゃないかなと思ってます。

Kという部外者を、村という有機体が追い出そうとする。あたかも身体がウイルスを追いだそうとするかのように。

何でこんなこと考えたかというと、村人たちの間の話題の共有の仕方が引っかかったからなんです。 一人しか知らなかったKの些細な行動を、次の日には村人全体が共有している。その様が、身体の一部が異常をきたした場合に、体全体が情報を共有して、原因となるものを消そうとしたり、追い出そうとしたりする、身体のメカニズムに似てるんじゃないかなと思いまして。

もちろん、細胞が「自分は身体全体の中で○○という役割を担っている」とは意識していないのと同様、村人たちは個々人が「自分の行動が村全体にどのような影響を及ぼしているのか」という自意識にとらわれることはありません。
というのも、彼らは「全体を見渡せる所にいないから」です。

「全体を見渡せる」位置にいる者、つまり「城」が、村に一方的に指令を与えているわけで、その意味では城は「脳」に当たるんじゃないかと考えています。 途中にある、「城の中では、書類の行方は分からなくなる」というエピソードは、この脳という器官(あるいは機関)の複雑さを表す話とも読めるんじゃないでしょうか。 (…とはいえ、最初に読んだときはそこまで考えずに爆笑しながら読んだんですがw)

そう考えると、村人たちが職業によってラベリングされているのも、「身体においてどのような役割を担っているのか」という事と繋がってくるのではないでしょうか。そしてKは何の役割も果たしていない、身体にとっては「正体不明」の存在になるわけで、身体全体によって追い出されるべき存在になってしまうのではないかなと考えてます。


・・・長文&駄文、すみませんでした〜(-_-;)
Posted by Mill at 2011年11月20日 21:02
あ〜〜っ、これ(も)読んだことないです。絡めない自分が悔しいww
Posted by ふぃぶら at 2011年11月20日 22:45
Millさん:
おぉ、コメントありがとうございます。斬新で面白い解釈ですねー。たしかに免疫系という視点で全部解釈し直すことはできそうですね。城のでは常にたくさんの役人が書類を書いたりしているってのは、デネットのパンデモニアルモデルなんですね^^;;

あ、そうすると、同様にフーコーのパノプティコンを免疫系のアナロジーで語って、それを現代に延長することも可能そうですね。免疫系になぞらえて現代社会を切り取ることにどんな意味があるかどうかはわかりませんが...あ、そしてガイア理論につなげられそうです(←ガイア理論は僕にとってなんの価値ももたないものですが(w)。


ふぃぶらさん:
ふぃぶらさんならあっという間に城も陥落させられると思います。でも、個人的には長すぎるだろと思っています、読む価値の8割は有名な作品だから人と話すためという感じ..orz

微妙に本末転倒なような気がしてます。あ、でもおかげでみんなが絡んできてくれたので嬉しいですが:-)
Posted by 山崎真司 at 2011年11月20日 23:32
話はそれますが、汎性欲論みたいな感じで受け入れられてる現実がありますよね。
僕は夢の話をとっかかりに思い出したくない過去(叔父さんとかの話)を見つめ治すことに意義があったのでは……と思います。

自分の〈物語〉を権威ある医者の前で再構築すること、それが自分の癒しにつながっていったのでは、と思っています。
実際フロイトが診察した患者の多くは今でいううつ病みたいな患者さんでしたし。

僕は日本に蔓延しているマルクスのイメージが嫌いですねー。

Millさんのイメージ(とマルクス)で思いついたのですが、免疫系もそうなんですが、貨幣流通システムとも似通ってきませんか。
城は造幣局、村人たちが職業によってラベリングされているのは、そのままの意味で、
村人たちが全体を見渡せる空間にいないのは、我々が経済活動を見わたせないのと同じ理屈なのでは?
少なくとも僕は日本の経済活動を見渡せてませんし。
そうするとKの扱いに困るところですが……。うーむ。
Posted by 有沢翔治 at 2011年11月21日 00:15
有沢さん:
どもも、難易度が上がっていくー ^^;; フロイトは汎性欲論と同時に、なんでも”無意識”や”潜在意識”というラベルのもとに思考停止を相手に促す(そして自分は好き勝手に主張する)権威付けに使われているあたりがアレです。

まぁ、もともとはあるところで「夢やばいよねー、夢の話聞いたら、相手の考えてることが相手より分かっちゃう」的なことを聞いたことがきっかけなんですが...

フロイト派がどうなのか知りませんが、夢について、有沢さんがおっしゃるように見つめたくない何かを、見つめさせるためにセラピストが使うツールとして使ってるならば全然いいのですが、夢は潜在意識の表出で、とか、その夢のモチーフから潜在意識が読み取れる、と言った言説には辟易してるのです。(もちろん読み取れる*かも*しれませんが、それはアートとして読み取れるのであってサイエンスではないし、誰にでも出来るものではない) もちろん、作品鑑賞や解釈のツールとしてはアリなんですが...


ちなみに貨幣流通システムとのアナロジーはイメージできませんでした(てへっ)
貨幣流通システムとすると、他者との”交換”というものがシステムの根本にあると思います。むしろ、城ではこの”交換”が行われず一方向性というところがポイントになってきているのです。つまり、城から放射される力といった見方はあっても、各モジュール(≒村人)間での”交換”が見られないと思うのです...
Posted by 山崎真司 at 2011年11月21日 10:39
内容についてもいろいろありますが、僕の場合はそれ以前に、「K(に限らずカフカ作品の主人公の多く)って自分だな」って最認識させられました。
Posted by 中宮崇 at 2011年11月21日 18:01
中宮さん:
”きっと何者にもなれない”自分と、一見まっとうだが実はおかしい(と自分から)見える村人の対応が、社会への居場所のなさと、圧倒的な社会の力(≒神の偉力)がそう感じさせるのでしょうか?

なんか、その感覚は分かります。
(共感できるという意味ではなくて、あー、そんな気がするという意味)
Posted by 山崎真司 at 2011年11月21日 18:18
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