原克著
紀伊国屋書店 2400円(税別)
初版: 2008年2月
サブタイトルは”速度と身体の大衆文化誌”とあります。
この本は1910年代〜1930年代において、世界で”流線形”がどのようなものとして捉えられていたかということを述べています。
ただし、”流線形”を分析していますが、美術史やデザイン史といった観点でも工業技術史といった観点ではありません。
”流線形”の実際の機能と社会での認知のギャップを、雑誌の記事(主にポピュラーサイエンス誌)を通して説明しています。
著者が本文中で
「かつてロラン・バルトは言った。神話は語りの形式であり、内容の問題ではない。神話の形式には限界があるが、内容には限界がない。どんな内容であっても、神話的な語り口をもってすれば、すべて神話になるのであると。」
というように
「神話作用」の引用をしていますが、
この本で上げられているのはまさに”流線形の語り”です。
当初は技術として取り上げられていた”流線形”はその形体や機能を離れていき、やがて”イメージ”として語られるようになっていきます。
また、アメリカでは”先端科学”のはずの”流線形”が大衆化していくのに対して、ナチス・ドイツでは”科学”としての文脈に抑えられ、ナチス・ドイツの科学力という国家主義の象徴として”流線形”が用いられます。
このようにわずか30年間における”流線形”という言葉の使い方だけでも、多くのことが分析できます。
実際にこの本では、30年間の言葉の使い方の変化と国の違いという縦糸と、車や女性の服といった応用の差異である横糸を丁寧に使って、”流線形の語り”という布を織り込んだといった印象でした。
他の方の感想を読んで:
最終章で語られる日本は、そのモダンなスタイルにだけ注目した「殺人流線型」(要は連続殺人)とか
「流線型あべっく」(要領の良いデートコースの紹介記事)とか、妙になごめるフレーズがビシバシ。
最後がこんなに軽くて良いのか…とも思ってしまうけど、その辺が日本人らしいってことだろうか。
バルトとか持ち出されると、つい納得してしまう。
最終章では「記号の帝国」というタイトル(普通は「表徴の帝国」)でロラン・バルトの日本論が書かれていますが、「実はここが書きたかったのか」と納得しながら読んでました。一方で「日本編は蛇足だろ!」とも思いながら...