ホルヘ・ルイス・ボルヘス著
岩波文庫
初版: 1993年11月(原著は1941年の八岐の園と、1944年の工匠集の2編の短編集)
ボルヘスの2つの短編集をあわせたもので、メタフィクションではないのですが概念的な小説です。短編はそれぞれあるのですが、主に以下のものがモチーフになっています。
・連環(無限の概念)
・1元論と2元論
・不在
連環というのはその名の通りで、終わったように思えても元に戻ったり、そもそも無限がモチーフとなっているものです。
例えば、ある話においては最初は明確に”仕組み”がストーリー中に語られているのですが、進んでいくうちのその”仕組み”が消えてなくなっており、最後には、リアルな世界にある”仕組み”が存在するかもしれないといったことを示唆します。
1元論と2元論は、明確に”グノーシス派”と”新プラトン主義”という言葉があちこちにちりばめられています。様々なところで、「(全く違うものに思えるが)実はAはBなのだ」といったレトリックが多用されています。
実際に、ここでいう2元論は(デカルトでなく)わざわざ”グノーシス派”と明記されているのですが、小説の上での2元論は、小説上の”筋”(現実世界での肉体に対応)と”概念や作者の意図”(現実世界での精神に対応)といった2元論として読みました。
ただ、実際に読者からみた場合は、これらは単に”筋”という1元論として読み解くこともできるのですが。
不在については、ボルヘスの代表的なモチーフだと思います。世の中には「犬が鳴かなかった」ことが奇妙であるという事件もあるそうですが、ボルヘスも敢えて”不在”になっていることがあります。
上記のようなモチーフを元に、形而上学っぽいSF小説といったところでしょうか。解釈に悩む話もありましたが、大変楽しく読むことが出来ました。
ぬぬ。
>一元論として読み解くこともできるのですが。
一元論で読む=筋を追うだけでは無意味っていうか、もったいないっていうか、訳わからん、終わり。ってことになりませんか・・・?
私が書評の解釈を間違えてるのかな?
私はあの後、読み返すたびに新たな解釈をしたり、発見があったり、二元どころか多元論として読みました。
ちくっと自身の文学観を入れたり、読者を限定したり、おちょくったり
他方、人生の無常感もあるじゃないか・・・・!とね。
>一元論として読み解くこともできるのですが。
えっと、例えば、ある小説(論文でもいいや)に”思想”と”筋”があるとします。まぁ、”イデア”とその表現である”ロゴス”ですね。人間の”精神”が小説の”思想”で、”肉体”が”筋”にあたります。
ただ、これは小説の中に入ってのみいえることで、小説を外部から見ると、”思想”は無くなってしまって、”筋”しか見えないということです。つまり、内部的には2元でも、外部的には1元ということです。
デカルト的には人間が2元論でも、機能主義的には1元論としてみなされるのと同様でしょうか...そんな解釈です。
つまり、小説の内部が多元なのに、外から見たら、一元的(筋のみ)でしょっ、って感じ。え?中身はもっと深いって?でも、”筋”でのみ表現できるなら一元的ということで。