生田久美子著
東京大学出版会 2400円(税別)
初版: 1987年9月
先日読んだからだ:認識の原点及び比喩と理解と同様にコレクション認知科学の第6巻となります。
この本は西洋的な学習と東洋的な学習を、心身二元論と心身一元論から読み解いた本であり、著者は「知識とは何か」というところから当初は組み立てたということですが、実際には「教育とは何か」を考えさせられた本でした。
日本の伝統芸能では、”見て覚える”という学習スタイルを取っていますが、西洋的にはピアノのバイエルのように系統立った学習プロセスがあったりします。また、学習においては、簡単な曲から順に難しい曲に移るといったことがありますが、日本の伝統芸能的な学習ではそのような段階性はありません。
また、学習においては、外形的な”形”から、その意味も踏まえた”型”を習得して、その後に”間”を覚えます。この”間”というのは、”型”と”型”との間にある無のことです。例えばビリヤードでいえば、フォームやストロークでなく、待ち方や試合中の心の置き方などになるでしょうか。
この本のテーマはこのような”学習”が、失われているということでしょうか。
背景にはデカルト以降の心身二元論と、心は身体より上という前提があります。たしかに心というのはなんとなくすぐに変えられそうだし、例えばスイング理論さえしっかりしていれば(つまり頭でさえ分かっていれば)すぐにゴルフできるという前提も学習者にとってとても魅力的ではあります。
もし、完璧なスイング理論と高い身体能力があっても、実際にはゴルフの”形”は得られても、”型”や”間”の習得はできません。一方、実際の模倣を通した学習では、”形”だけでなく、それ以外のことを同時に学習することができます。これは実際には模倣だけでなく、模倣を通じて、その意味を問うということを繰り返すからです(逆にそれをしない人はそこまで)。
このような理論重視は教育においてもいえます。例えば、農業について学習する際に農作物の育て方といった理科の授業と、農家の生活という社会の授業をやることで、予め規定したポイントとなる”知識”を学習することはできますが、実際に畑で作物を育てることをすると、教師が規定していた”知識”以外のことを学習することができます。
このように教育から、”間”のような深い部分までを学習する機会が失われたということは明示的には述べていませんが。たしかに、「わざ」の学習という視点から突き詰めると、現代の効率化というものは多くの学習機会を捨ててしまったんだな、と思わざると得ませんでした。
元々はスポーツなどでの学習と認知心理といったものを考えるために読み始めたのですが、どうやらそんなレベルの本ではない大作に巡り合えたな、と感じました。
日本式学習ってのは
心技体だと未だに思ってたりします♪
たしかに”わざ”の学習過程のみに絞っていて、全体としては心技体ですよね。しばしば技>心>体という優先順位がつけられてしまっている気はしますが...(例えばコースに出ると緊張して、というのでなくて、実は朝プレーする習慣がなかったり、18コース回る体力がなかったり...)