2011年12月16日

美学への招待

美学への招待 (中公新書)
佐々木 健一
中央公論新社
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(以下はこの本にあることで考えたことも少し含みますが、基本的には本の考えを踏襲していると思います。。。たぶん。)


経験的には、芸術鑑賞というのはセンスの問題だと思っています。何度もその対象に触れているうちに、見る目が養われていくというのが経験的にあります。その結果、どういうものが美しくて、どういうところを見るのかがわかってくるのです。

しかし、これは本当でしょうか?

細工の細かさといったものや、写実的な絵においては経験によって見る目が養われていきますが、それ以外は「世間的にいい絵と言われているもの」を”いいもの”として学んでいるだけかもしれません。また世間的な芸術家の格といった背景知識を手に入れることで、作品そのものを見る目が養われているわけではないかもしれません。


たぶん、このセンスというものを考えていくのが美学だと思います。この美学への招待では、美的体験とい美的範疇というものをまず19世紀的な美学の主題として説明しています。美的体験というのは、今風にいえば、クオリアに近いでしょうか?実際に見たものを美しいと直感的に感じることです。一方、美的範疇というのは、こういうものが美しいという概念モデルの集まりでしょう。例えば、”青い空が広がった絵は美しい”と感じる、”写実的な描写の絵は美しいと感じる”、”黄金比を駆使した構図は美しいと感じる”、”光と影の対比を使った絵は美しいと感じる”、といったように絵には美しさのパターンがあります。このパターンをさらにもう少し大きい枠でまとめていくと、美しい絵のデザインパターンとでもいうべきものが見えてきます。これは作る側から見るとデザインパターンですし、受け手から見ると美的範疇になります。

この19世紀までの美的体験と美的範疇による美学に対して、20世紀は解釈と美的概念がそれにとってかわりました。これは、今風に言えば、美的コンテンツから美的コンテクストへの移行でしょうか?

写真の発展により、写実的であることの価値が失われてきて(また絵の具の発展も含めた主題の変化に伴って)印象派といったものが20世紀の初頭に表れましたが、そこから、ありものの便器にサインをして作品としたデュシャンやウォーホルなどのような行動する芸術家といった人たちの作品は、作品自体の内在的な価値というよりも、解釈するコミュニティ(アート・ワールド)内での他との関係からなる価値というものになっています。このコンテンツ→コンテクストの移行が20世紀の主題であり、美学を複雑にしているものでしょうか?

私たちは、記号論のようなツールを使ってコンテクストならびに作品を解釈しきますが、思わず昔ながらの考え方によっても現代的な作品を解釈してしまおうとします。この本では、それを「永遠の藝術」と「現代的藝術」という対立で述べています。誰が見ても美しいような「永遠の藝術」というものがあり、それは分かりやすいものとして美術館に飾られます。
これに対して、アート・ワールドで価値を持つような「現代的藝術」はそのコンテクスト内で価値を持ちます。つまり、この価値は”現代的”であり、共時的な体系(つまりの瞬間)において持つのです。そして、「現代的藝術」愛好家は「永遠の藝術」愛好家とは別のものになります。この本によると、「現代的藝術」愛好家は、より熱狂的なのです。そして、この「現代的藝術」はある種の破壊をするために、その作品は「永遠の藝術」性がおうおうにして低いことがあり、場合によってはそれが低いこと自体に価値を持ちます。

つまり、作品には、コンテクストvsコンテンツという対立があるのですが、これは作品内に内包している美しさ(「永遠の藝術」性)と、作品が生まれた時に体系内で存在した相対的価値(「現代的芸術」性)とのせめぎあいという形で解釈しなければならないのです。
posted by 山崎 真司 at 16:10| Comment(2) | TrackBack(0) | 哲学、人生論