2008年09月26日

本を読む本

MJアドラー CVドーレン著
講談社学術文庫 900円(税別)
初版: 1997年10月(以前1978年から出版されていたものです。原書の初版は1940年ですが1972年版をベースに翻訳されたものです)

この本は主に小説以外の読書の方法を説明した本です。「え?読書の方法ってなに?」とか思われる方もいらっしゃるでしょうが、この本では大きくは2つの読書方法を提案しています。
これは点検読書といういわゆる斜め読みと、分析読書というより深い読み方の2つです。そして読書においては、この広く浅い読みと、狭く深い読みを組み合わせるといったことを提案しています。


これは情報を得るための読書と理解を深めるための読書は別であるという前提に立っています。たしかに情報を得るための読書と理解を深めるための読書は、別の読書方法があるはずです。また、どちらの読書にしろ、情報が均一にあるわけではないので、読書の中ではこの浅く読むと深く読むを使い分けながら読むことになるとは思いますが...

実際には、この縦横の使い方(ある読書における戦術レベルでの読み分け方)というのもあると良かったのですが.....


他人の書評を読んで:

http://tieno.blog79.fc2.com/blog-entry-223.html
読書は4つのレベルに分けれる。
そうそう、私の説明では読み方は2つ(点検読書と点検読書)と書いたのですが、この本では実際には読書のレベルという書き方をしています。まったく次元が違うものなので、読書のレベルというのとは違うのではないかなー、と思ってたの2つの読み方を提案していると書きました。


http://digi-log.blogspot.com/2007/03/blog-post_26.html

こちらの方のブログは非常によくまとまっているので、こちらを一読されたいと思ってます。ちなみに私は”シントピカル読書”というのはあまりピンとこなかったのですが...
清水は客観的読書法から主観的読書法へと変化したと述べていた。つまり、丹念に客観的にノートをとっていたのが、テーマや問題意識にそって、あくまで自分を主体に本を読むようになったということだ。これはアドラーの「分析読書」から「シントピカル読書」への移行と同じことだろう。
あるところで、客観的読書と主観的読書について議論をしていたのですが。基本的には私は主観的読書主義者です。「客観的読書よりも主観的読書の方がより良い」とかでなく、作品の価値を著者や作品に内包されているという前提だったり著者はより高い知性などを持つという前提か、価値というのは解釈の瞬間に生まれるという前提なのか、によると思ってます。


http://library666.seesaa.net/article/70208257.html

当然、著者もそれは分かっており、適宜、本に合わせて読書法を省略したり、簡略化して行うことを推奨しているが、その点についての具体的な方法はほとんど述べられておらず、『実用性』というよりも『実現性』に極めて乏しい。
少なくとも読書法を教授する意図で書かれた本であり、これを使う事でより良い読書ができることが期待されるはず。所詮ハウツー本である以上、より簡素な明確さが必要であり、分かり難いとは言わないまでもあまりに冗長な文章はいただけない。実際の読書での実現性に乏しい点に至っては重大な問題だ。何よりもこれ読んだら、読書したくなくなってしまうんですが、これって致命的な欠陥だと思うのだが・・・?
私は、この本は絶対に推薦しない。
意外な展開でした。
私がこの本を読んだ感想は「普通すぎて、特に読まなくてもいいんじゃ...」と思ってましたが。もちろん、この本で言う分析読書を細かいレベルで、個別に行う必要は無いと思いますが。
また、実はこの本はハウツー本といいながら、深い読み手にはあまり意味がない(すでにしていることが多い)し、そうでない人にはこの本自体が難しいかもしれないという気もしてきました。


http://ameblo.jp/seikoustreet/entry-10089141737.html

全体的に、ある程度本を読みなれてないと読むのが難しい本だと思います。
個人的には、点検読書とシントピカル読書の箇所を非常に興味を持って読み進めました。
「難しい本を読むとすぐ挫折してしまう」「よく本を読むが、あまり内容が理解できていない」と感じるかたは、是非1度読んでみて下さい。
個人的には中高生くらいに読んで欲しい本だと思いました。その頃読んでいれば、もっとラクに本を読めるようになっていたのに..
posted by 山崎 真司 at 23:48| Comment(2) | TrackBack(0) | その他、一般

2008年09月21日

ファッションの文化社会学

ジョアン・フィンケルシュタイン著
せりか書房 2400円(税別)
初版: 2007年9月(原書は1966年)

この本はファッション史でなく、ファッション論です。原題は”After a Fashion”です。”ファッションの向こうに”といった意味と、”どうにかこうにか”という慣用句のダブルミーニング(ひっかけ)となっています。
ファッション史は以前読んだことがあるんですが、ファッション論なんて初めてです。


というわけで、読んだ結果、思ったことです。ちなみに、これは書いてあることそのままではなくて、そこから考えたことも少しだけ含みます。よって書評ではないです。


私が読んだところで、装飾というのはファッションの一形態(表面)としては
・他人からの賞賛
・他人に対する優越感
・他人からの欲望や嫉妬されること
といったことを目的としています。

ちなみにファッションというのは
・広告イメージ(空想や理想)と服そのもの(現実)
・身体を隠しつつも、目立ちたい
・流行に乗るという同質化を図りながら、他人との差異化を図る
といった背反的なバランスを取るもので、このバランスを取るサイクルがファッションといえます。

また、記号としてファッションを見ると、ファッションは分かる人だけが分かるという記号体系です。これによって、ファッションはこの記号空間を共有しているかどうかを見分けたり、一方で同じ記号空間を共有していない人を排除するといったものとなります。
これは機能的には社会的なコミュニティ間の壁になると言えます。つまり、ファッションは、所属しているコミュニティ(=記号空間)を主張する言語である、といえます。そうやって考えると、”ファッションの向こうに”あるものは、ファッションとは、装飾や服装だけでなく、所属階級や喋り方やタバコの吸い方や聴く音楽も全て含んだものであるということでしょうか。
そういえば「服はなぜ音楽を必要とするのか?」といったタイトルの本がありましたが、このタイトルについては、自明ということになるでしょうか。


(ちなみに著者名のフィンケルシュタインを見ると、ダーマ&グレッグがどうにも頭に...)


他人の書評を読んで:

http://ueshin.blog60.fc2.com/blog-entry-830.html
これ、書評ではありませんが...
 私たちは自己満足がほしい存在である。賞賛や評価はなおさら与えてほしい。もしだれも与えてくれないとしても、ファッション雑誌が称賛し評価する服やファッションで着飾れば、私も評価され称賛された存在になれる。私は賞賛や評価を、ファッションという代替物で補給するのである。
 私たちはなぜこうも社会や世間から賞賛され、評価されなければならないのだろう。いったいだれが仕組んだんだろう。いったいだれが仕掛け人なのか。
賞賛が欲しいというのは、ファッションに限らないとは思いますが。ファッション自体は変化を求めるもので、これが無間地獄となります。この背景は、拡大を基本とする資本主義の呪縛なのでしょうか、変化を求める動物の性なのでしょうか。
この本によると、社会移動性が高まったために、
ファッションに誘惑されやすい人は「不安定な階級」、とりわけ経済的に自立する手段を奪われた女性たちだった。彼女たちがよりよいと思う人々のファッションやスタイルを模倣するのも、不安定な状況からぬけ出したいからだということになる。
ということです。


 

posted by 山崎 真司 at 21:10| Comment(2) | TrackBack(0) | 社会一般

日本人はなぜシュートを打たないのか?

湯浅健二著
アスキー新書 724円(税別)
初版: 2007年7月

この本、一見サッカー論とみせかけて日本人論としても読めます。ドイツ留学経験がある著者がそのときの経験を書いています。
著者が、「どフリーになった時にどうしよう」という不安が裏のスペースへの走りこみを躊躇させたという経験を下に、”サッカーにおいて責任を負う”ということを述べてます。
そして、この責任を負うということとして、攻撃のためのフリーランニング(オフザボールでの動き)の重要さについて述べています。実際に、一冊丸々、フリーランニング論と言っても過言ではないくらいにフリーランニングについて述べてます。


この背景という責任感の差はドイツと日本の国民性の違いから来るのか、単に日本がサッカー後進国(すくなくとも先進国でない)というところから来るのか、日本人の個人が責任を負わない特徴を持っているか分かりませんが。やはり、背景が技術論ではないことと、著者の経験(ドイツやサッカーでのコーチ経験)からすると、日本人の国民性なんでしょう..

この本はあくまでのサッカー論の本であってビジネス書ではありませんので、これをビジネス書として読むのは正しくないでしょうが。ビジネスについてサッカーについて喩えて話すのが好きな人(私)にとっては、多くの語彙を増やすことが出来た本と思いました。


ただし、あくまでも”フリーランニング論”の本なのです。

 
posted by 山崎 真司 at 09:43| Comment(0) | TrackBack(0) | スポーツ関連

2008年09月19日

知りたいことは「面」に聞け!

西村行功著
日本経済新聞出版社 1600円(税別)
初版: 2008年4月

ビジネス書を中心といいながら、最近さっぱりビジネス書を読んでませんでした。というわけで、この本はきっぱりとしたビジネス書です。
しかも、まるまる一冊で一つの概念と、その使い方を説明しています。その概念というのは、面グラフというもので、このURLのグラフを見てもらえるとなんとなく分かると思います。


ポートフォリオマップやSWOT分析のようなツールはよく使うかもしれませんが、この面グラフはそれ以上に応用範囲が広く、かつ使いやすいツールです。わざわざ1冊かけて、面グラフの使い方を述べていますが、だんだんと面グラフの書き方というよりも分析手法の話になっています。

この著者の本は他に何冊か読んだことがあったのですが、こういう背景があったのですか...出来ればこの本を先に出して欲しかったです。シナリオプランニングよりも、よっぽど役に立つ、即効性のあるツールでした。


他人の書評を読んで:

http://ameblo.jp/strategyconsultant/entry-10089579338.html
 
どんな分析でも、そこから生まれる主張が明らかでないと意味がないんだ。

引用の引用なんですが...分析よりも、表現でしょうか...
この本は、面グラフというグラフの書き方を説明していますが、実際には面グラフを書くことを目的として、どう分析するかという本です。


http://blog.livedoor.jp/businesslaw/archives/51525346.html

 
2つの変数の置き方で、表現される面積も大きく変わってくることから、数値データの中に埋もれている見えにくいメッセージを探す発想・分析手法としても使えるのが面白いところ。
 
ということになります。実は、私のページよりも、こちらの方のページをみて、グラフ部分をよくみてください。これで面グラフの半分は理解したと思います。あとは、どういう時に使うかをしっかり考えるだけでもいいかもしれません。
 
 
posted by 山崎 真司 at 22:43| Comment(0) | TrackBack(0) | その他、ビジネス書

物理学とは何だろうか 上

朝永振一郎著
岩波新書
初版: 1979年5月

物理学には占星術が、化学には錬金術が、それぞれ発展に貢献したということです。


この本は近代〜現代物理学史といった趣の本でもありますが、総論でなく、ポイントだけ述べることで、それぞれのジャンルでどのように物理というのが発達していったのか、またその発達はどのような思考の下で行われたかということが分かります。

この上巻では、ブラーエ、ケプラー、ガリレオ、ニュートンという力学の発展と、ワット、カルノー、ジュールといった熱力学の発展を述べています。こうやって、近代物理学を俯瞰すると、ごく最近まで物理学というのはあまり進んでいなかったのだな、ということを感じます。ソクラテス、アリストテレス、ピタゴラスといった時代から、1000年以上あまり変わっていなかったということでしょうか。


実際に読んでみると、これ以前の手法(一言でいえばニュートン以前?実際、この本ではケプラー以前)と違って、手法がいわゆる科学的(再現可能で実証可能なものに基づいている)になっています。また、世界観的な点では、ニュートン以前と以降で、世界が統一されているという視点は知りませんでした。それまでは天界の事象と、地上界の事象は別々の要因に拠っていると思われていたのですが、ニュートンが地上界の物質と同じ理由で星が動いているということを解明したのです。


また、熱力学というのは大学の物理では全然面白くなくて、ピンときてなかったのですが、これを読むと、面白いです。原理でなくて、背景や、その解明した過程なんかが授業にあったら、さぞ楽しいでしょうね...


うーん、こんな本は高校時代に読みたかったです...残念。是非、高校生に読んでもらいたい一冊でした。

 
posted by 山崎 真司 at 22:06| Comment(0) | TrackBack(0) | その他、一般

2008年09月17日

歴史哲学講義(下)

ゲオルグ・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル著
岩波文庫
初版: 1994年8月

今の自国の状況(”今の”歴史)は肯定的に捉えるべきでしょうか、それとも否定的に捉えるべきでしょうか。ちなみに、私は現在の日本の「今この時」を肯定的に捉えることは出来ません。


では、ヘーゲルはこの歴史哲学講義で何を言おうとしていたのでしょうか。ちなみに、この歴史哲学講義は、まさに講義ノートですので、当時の大学(今の大学と違って本当にエリートの集まりだったはずです)で教えていたもので、それを踏まえて読む必要があります。

内容は、過去の歴史を述べながら、”今の”歴史の立ち位置を述べています。そして、この立ち位置は「ともあれ、この形式的な絶対原理の登場とともに、わたしたちは、歴史の最終段階であるわたしたちの世界、わたしたちの時代にやってきます」が全てを表していると思います。
ここに至る過程で諸事象についての考察を行った上なのですが、ここまで読むと”今のわが国”を全肯定しています。
もちろん、この背景にはルター、カントという巨人が思想的な背景を創った国という自負があるでしょうが..


どうでしょうか?私はかなり違和感を感じてしまいました(それが、”今”の差から来るものかもしれませんが)。


では、現在の日本人がこの歴史哲学講義より”今”を読む時は、どのように読むべきでしょうか?

たぶん、今を肯定するのか、否定するのか、は読み人によるでしょうが。そこに至るまでのものさしの使い方(主体性や精神的自由といった観点)や、過去の歴史から”今”を相対化していくというアプローチとしては、この本は十分に楽しめる本でした。
posted by 山崎 真司 at 20:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学、人生論

2008年09月16日

介子推

宮城谷昌光著
講談社文庫 714円(税別)
初版: 1998年5月(単行本は1995年6月)

 
晋の王、重耳の家臣だった介子推(介推)のお話です。宮城谷氏の小説は、どこまでが史実でどこまでが小説なのか分かりませんが。そもそも2600年以上も前の人の話なので、史実といっても創作が多く、史実と小説の分離自体がナンセンスなのかもしれません。
 
その友人石承と何人かのライバルを交えながら、素朴で誠実な介子推の人となりを描いています。暗殺と裏切りという影が常にチラついているのですが、それを策や知でなく、あくまでも誠と義で対抗していきます。
 
このあたりの筋まわしや、登場人物の清々しさが、まさに宮城谷氏といった感じでした。
 
posted by 山崎 真司 at 22:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説

ソクラテスの弁明・クリトン

プラトン・クセノポン著
講談社学術文庫 880円(税別)
初版: 1998年2月

自殺予防週間ということで、ショウペンハウエルの「自殺について 他4篇」と同時に再読してみました。この本はプラトン著の「ソクラテスの弁明」と「クリトン」、そしてクセノポン著の「ソクラテスの弁明」が載っています。
ちなみに「弁明」はソクラテスが若者をたぶらかしているという罪状で訴えられた際の反論です。「クリトン」は有罪で死刑になったソクラテスに脱走を勧めにきたクリトンとソクラテスの対論となります。
以前、「弁明」を読んだ時は、ソクラテスが真剣に反論をしていたという印象だったのですが、再読すると全く印象が違って、反論するというより限定的な範囲において(つまり真実に対するソクラテスの立場を)主張のみしていて、全く反論や弁明をしていない、といった感じです。


ソクラテスは「死を免れるより、卑劣さを免れる方がはるかに難しい」といった主張をしていて、これは印象に残っていたのですが。
むしろ、「だってきみたちにはずっと前から分かっていたのではないかね。ぼくが生まれたその瞬間から、自然によって、ぼくに死刑が宣告されていたのだということがね」といった死へ向かう立場が”弁明”のポイントでしょうか。


そもそも、”生”と”死”はどちらがよいものなのか分からないのですが、もし”死”の方が”善”だとしたら、知人や友人に悔やまれながら”自殺”をしたソクラテスは本当に幸せだったのではないか、と思いました。

posted by 山崎 真司 at 22:12| Comment(0) | TrackBack(1) | 哲学、人生論

2008年09月15日

心の対話者

鈴木秀子著
文春新書
初版: 2005年9月

”アクティブリスニング”といういわゆる”聴く力”のための本です。
基本的にはコーチングといったジャンルでしょうか。どこかで読んだようなことばかり載っていたという印象です。

要は聞くときに自分の心(内なる声)を沈黙することを述べている本といえます。「いや、こうでしょ」とか「たしかに〜〜ですよねーっ」ではなく、「どうしてそうなの?」でもない。
相手の言いたいことを一歩先を導くように聞いていく(ただし方向性はコントロールしない)といったことでしょうか。


「え?でも、導かないで、自分の意見も封じて聞いていくってなにそれ?」というそもそも論もあるかもしれません。つまり、何のために聴くのか、という問題です。

例えば相談の多くは相手の意見や感情の表明にすぎないわけですが、それをただひたすら聴くというのは、何のためでしょうか?そこから相手の意見を上手く引き出して、相手の悩みを昇華させることは、仕事の上では必要だと思いますが....
これは相手のためでなく、自分のため?仕事の上では、相手のためと自分のためは一致しているのですが、普段は相手のためというのは自分のためと思ってしまうのです...うーん。


ところで、読んだところで、改めて自分が気にしないといけないのは、言葉、感情、あいづちによるミラーリング(特に感情はできてない)と、90:10の法則です。
ミラーリングは名前の通り、返すことです(反すとは違うか...)。
90:10の法則という不快感の90%は以前の蓄積によりなっていて、10%がその言葉によるといった法則です。


どこかで読んだことばかりといっても、うまくまとまっているので、コーチングや”聴く力”的なものに興味がある人にはうまくまとまっているんではないか、と思いました。逆にいえばもう一歩踏み込んで欲しかったのですが、新書の位置付け的には正しいポジションでしょうか。

 


 

posted by 山崎 真司 at 08:30| Comment(0) | TrackBack(0) | コミュニケーション、交渉術

2008年09月06日

「読み」の整理学

外山滋比古著
ちくま文庫
初版: 2007年10月(元は1981年11月の「読書の方法」(講談社現代新書)に加筆修正したもの)


私は読んでませんが、「思考の整理学」で有名な外山滋比古氏の本です。タイトル買いの一冊です。....いや、プロローグは読んでから買いましたけど。


この本では”既知を読む”ことを”アルファー読み”、そして”未知を読む”ことを”ベーター読み”と称して、”アルファー読み”と”ベーター読み”の違いと、”ベーター”読みの優位性や必要性を述べています。


以前読んだ本の中で、理解をするときに抽象度のレベルがあって、

・自分に起こったことが分かる
・ストーリーが分かる
・ストーリーがないものが分かる(数学や哲学など)

といったことが書いてあった記憶があるのですが...
この本では抽象度という軸でなくて、”既知と未知”という切り口から述べています。


本の内容をざっくり要約すると、自分がきっちり理解できる小説や、例えばスポーツ記事のような既知のことばっかり読むのでなく、自分が”分からない”ことを含むものを読む。
例えば古典や経済記事や政治記事のようなところも読みましょう、といったところでしょうか。


個人的に面白かったところとしては、”言葉”を「ごく親しい人の間柄などで持ちいられる省略の多い」限定用法と「論理的で、文法的にもいっそう整備あれたフォーマルな」精密用法というものがある。
そして、学校の授業では主に(実際には会社などのフォーマルの場では)精密用法が用いられるため、家庭などで普段から精密用法を使っている方が有利となる、ということでしょうか。

実際には、ここでいう限定用法を使うような家庭と精密用法を使うような家庭があり、また精密用法を使うような家庭の方が「悪いこと」をした時にも、どうして悪いということを説明する傾向があることなどもあります。


また同じ”ベーター読み”でも、本を読むとき時には「著者の考えや人となりから思想など」を手がかりに読んでいくといった読みと、「その表現の形式」から読んでいき「著者の個人的コンテクスト」でなく「普遍的コンテクスト」として読むといった読みがあります。

”ベーター読み”の中でも、このような解釈の軸を持たないまま未知を読んでいくという「普遍的コンテクスト」の読みといったものの必要性も述べています。


 

他の方の書評を読んで:
http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/1514/2023/50573266
私の理解では、読み方を洞窟探検にたとえると、アルファ読みは「ちゃんと入り口から入って、地図をもって、命綱を引いてもらって探検する」ようなやり方。一方、ベータ読みは「いきなり目隠しとヘッドフォンをされて洞窟の中に放り込まれ、懐中電灯一つでそこから脱出する」ようなやり方だと思います。このやり方だと、自分の全感覚を研ぎ澄ませてで洞窟の壁の様子や風の方向などを観察して、徐々に状況を理解しようとします。
 一方、アルファ読みの方は、地図を持っているので、そこまで観察しません。だからこそ、見落としてしまうものがあると、そんなように思います。
 ですから、余計な地図(読みにおいては先入観など)を持たずに、洞窟の様子を観察(文章を書かれているとおりによく解読)することにより、より深く文章を理解することが出来る、と、このようにも思いました。


素敵なたとえですが、先入観などを持たずに読むというのが果たしていいのか、悪いのか分からない気もしてます。単独のテクストを読むという上では、既知のことの方がよく読めるとは思うのですが...

一方で、(今)読めないもの読んでいくということでなければ、既知の領域が広がっていかないということでは理解できるのですが...
 
それでも、目隠しとヘッドフォンをされて洞窟の中に放り込まれたような読みこそが、神経を尖らせるということに異論はないですが。
 


http://archive.mag2.com/0000247693/20071204084824000.html?start=60

ベータ読みの訓練方法は幾通りか載っていますが、
その前後が、なぜかかなりクドいのがこの本の特徴です。
それはなぜかというと、この訓練方法、かなり前時代的なのです。
著者もそれを分かっていて、こんなことを書いています。


このすごくよくまとまってるブログですね。たしかにこの本では前時代的なことが書かれています。

 
外山氏も書かれているのですが、私は「杉田玄白」よりマシと思いながら読むことがあります、そういうボトムラインと比べると、最近の読書環境は相当マシだと思うのですが...


 

posted by 山崎 真司 at 07:48| Comment(0) | TrackBack(0) | その他、一般

2008年09月05日

ブギーポップは笑わない

上遠野浩平著
電撃文庫
初版: 1998年2月 
 
知人に勧められて読んでみました。読む前は口ぶりからメタフィクションっぽいものを想像いていたのですが。実際には、そうではないです。
ジャンルとしては、”少し不思議”系のSFでしょうか。ライトSF?
 
 

以下ネタバレっぽくなるかもしれません。
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ポイントは各章ごとに視点が移動することでしょうか。1つの事件を複数の視点から捉えていって、エンディン

グに向かっています。
 
スクリューの羽根をイメージしてもらって、それぞれ外から中にねじれながら(そして他の羽根とからまりながら)進んでいく。
 ただし、どの羽根も中心まではいかない、といった感じです。1章ごとのが、この羽根になっていてストーリーが進み、最後の1枚の羽根になるとスクリュー(=ストーリー)の全体を現すといった構造でしょうか。
 


ちなみに、この本を薦めてくれた人は、本を”ビジュアル的にイメージして読んでいく”タイプの人ということでしたが、私は全くそういうタイプではありません(うすうす気づいてましたが)。

この辺りが”文系読み”と”理系読み”との違いかもしれない、と読んだ後にふと思いました。
 
私もそうなのですが、私の知人(最も仲の良い人の一人)で多読家の人(大学の先輩?向こうが中学時代から知ってますが)も、読んだ後の小説の筋とかを相当忘れてる派なのです。
 
二人とも、ビジュアルイメージをきっちり持ちながら読むか、抽象的なもの(それはそういうもの)として読むかの違いなのかもしれないなー、と少し思いました。
 
posted by 山崎 真司 at 20:57| Comment(7) | TrackBack(0) | 小説

2008年09月01日

海の波を見る  誕生から消滅まで

光易 恒著
岩波科学ライブラリー
初版: 2007年4月

岩波科学ライブラリーですが、実際には波の研究者が撮った波の写真集といったところでしょうか。風波(ふうは、かざなみ)という風によってできるできる並の研究者が、並の生成から消滅までを人の一生になぞらえて、また不思議な波の写真を、科学的な説明と共にしています。
これまで波というのは、漠然と月の引力とコリオリの力が複雑に絡み合ってできていると思っていたのですが、実際には他にも風からできているということでした。


この本は純粋に波の写真集(解説者は極めつけの波マニア)としても読める、いや鑑賞できるのですが。この解説がは、研究(=科学)の縮図ともいえます。
風波の研究が比較的新しい分野ということもあり、説明の端々から研究の発展や分かっていることと分かっていないことというのが伝わってきて、風波研究の概観を捉えられるのも素敵なプラスポイントでした。


さくっと読める本なのですが、美術好きにも科学好きにもオススメできる一冊でした。また、これまでいかに日常にあることを見逃していたかというのも思い知らされました。


他人の書評を読んで:

http://sanasen.jugem.jp/?eid=604

 しかし、こんな優雅な自然現象ですら研究が推進されたきっかけは第二次世界大戦の上陸作戦にそなえるためだったとは……まったく人類は因果な動物である。
 まぁ、地震波探査や古地磁気調査も冷戦期の軍事的緊張が可能にしたことを考えると、大量の予算を必要とする前例のない研究は軍事にリンクさせないと実行が難しいのだろうな。

風波の研究は第二次世界大戦を契機に行われたというのは読んでいましたが、たしかにこの科学(本書)というのが、軍事と絡まないと行われなかったというのは....たしかに悲しいというか、因果な動物ですね.........むー。


http://plaza.rakuten.co.jp/bhavesh/diary/200707250007/

 これはスティーブンスンの名作「宝島」からの1節である。興味深いことに、うねりの実態をじつに見事に表現している。p44
 たしかに、この風景のなかに、地・水・火・風・空が入っている。


そうですね。この”宝島”からの引用は素敵でした。光易氏は研究者のはずなのですが、こういった引用や喩えが非常に巧みでかつ詩的です。例えば発生した後に風の力を受けて成長している途中の青年期の波の説明には

この活力に溢れた波の姿は、大量の栄養を吸収するとともに貪欲に知識を吸収し、急速に成長を遂げる少年期から青年期にかけての人間の姿に似ている。荒々しい振舞いで周囲に波紋を生むところまで似ているようである。
とあります。なんという素敵なレトリックでしょうか。理系の教授というよりも、海洋写真家の本であるというところでしょう。本当に素敵でした。
posted by 山崎 真司 at 21:37| Comment(1) | TrackBack(0) | その他、一般

歴史哲学講義(上)

ゲオルグ・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル著
岩波文庫
初版: 1994年6月

”難解”として有名なヘーゲルの著書ですが。この本は、長谷川宏氏の翻訳が良いのか、元々読みやすいのかかなりサクサク読める一冊となっています。
あ、実はヘーゲル著書でなく、大学での講義内容をヘーゲルの死後にまとめたものですね、これは。


この本では、序論と第一部の東洋世界が収められていますが、序論ではヘーゲルの歴史観が述べられます。なお、この本での歴史は哲学的な意味での歴史となっています。

なお、ヘーゲルは”神の摂理”が歴史のうちにも存在するという立場で歴史を捉えています。また、各地域(中国、ペルシア、インド)といった地域の歴史を俯瞰していますが、そのときのポイントとしては、歴史の有無(例えばインドには神話はあっても歴史はない)、自由があるか(自由な思想がないとダメ)、倫理観の有無、といった視点で語っています。


この本を読んでいると、ヘーゲルが文化(思想?)というものがどうあるべきと考えているかは非常に分かりますが、そこに至る過程は一切説明がなく所与のものとして記述されています。また全体的に、ある摂理の元で歴史が進んでいること(基本的に正しい方向へ進んでいる)という思想が強く、またドイツ(プロイセン?)を強く肯定しているという背景が見え隠れする感が少し鼻につきますが...

逆に自分の歴史観にある偏見といったものを意識することができました。
 
posted by 山崎 真司 at 20:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学、人生論

伝奇集

ホルヘ・ルイス・ボルヘス著
岩波文庫
初版: 1993年11月(原著は1941年の八岐の園と、1944年の工匠集の2編の短編集)


ボルヘスの2つの短編集をあわせたもので、メタフィクションではないのですが概念的な小説です。短編はそれぞれあるのですが、主に以下のものがモチーフになっています。

・連環(無限の概念)
・1元論と2元論
・不在

連環というのはその名の通りで、終わったように思えても元に戻ったり、そもそも無限がモチーフとなっているものです。
例えば、ある話においては最初は明確に”仕組み”がストーリー中に語られているのですが、進んでいくうちのその”仕組み”が消えてなくなっており、最後には、リアルな世界にある”仕組み”が存在するかもしれないといったことを示唆します。

また、「バベルの図書館」という秀逸な短編では、同じ本は一冊しか同じ本がないという無限の図書館(*公理*として無限を越えて存在している)について述べています。


1元論と2元論は、明確に”グノーシス派”と”新プラトン主義”という言葉があちこちにちりばめられています。様々なところで、「(全く違うものに思えるが)実はAはBなのだ」といったレトリックが多用されています。

実際に、ここでいう2元論は(デカルトでなく)わざわざ”グノーシス派”と明記されているのですが、小説の上での2元論は、小説上の”筋”(現実世界での肉体に対応)と”概念や作者の意図”(現実世界での精神に対応)といった2元論として読みました。
ただ、実際に読者からみた場合は、これらは単に”筋”という1元論として読み解くこともできるのですが。


不在については、ボルヘスの代表的なモチーフだと思います。世の中には「犬が鳴かなかった」ことが奇妙であるという事件もあるそうですが、ボルヘスも敢えて”不在”になっていることがあります。


上記のようなモチーフを元に、形而上学っぽいSF小説といったところでしょうか。解釈に悩む話もありましたが、大変楽しく読むことが出来ました。

posted by 山崎 真司 at 08:18| Comment(2) | TrackBack(0) | 小説