2008年11月20日

自閉症者が語る人間関係と性

グニラ・ガーランド著
東京書籍 1800円(税別)
初版: 2007年7月(原著は2004年)


タイトルの通り、自閉症者の友情や家族関係、セクシャリティについての本です。

これまで自閉症者と会ったことはないので、なんとなく読んで見たという本ですが。
そもそも、自分はたまたま偶然に何かが出来ているだけで、ちょっとしたバランスでいろんなことができなくなったり、認識できなくなる危険性をはらんでいるとおもっています。例えば人前で自慰をすることが社会的によくないということを認識していない人も世の中にはいますが、そういう人と自分は紙一重の差ではないでしょうか。このような危うさを感じながらこの本を読みました。


一方、自閉症者というのがどのような人達かは分かりませんが、そういう人達にとって他者と関わったり、またセクシャリティにどう向き合うか、という問題を、自分にとってもリアルな、そして実はオブラートにつつまれていない分ピュアな形で提示された気がします。具体的には、他人とどう向き合うか、セクシャリティとは何か、という問題を正面から考えることができました。

またそれを考えることで、自閉症者と違う社会的な暗黙の縛り(性による振る舞いの暗黙の期待?)を強く感じることになりました。


 

posted by 山崎 真司 at 21:36| Comment(2) | TrackBack(0) | 社会一般

愚者の道

中村うさぎ著
角川文庫 438円(税別)
初版: 2008年2月(単行本は2005年12月)


買い物の女王として知られる(元?)ライトノベル作家でエッセイストの中村うさぎのエッセイです。買い物依存症→ホストにハマる→美容整形→デリヘル体験といった経験をして、またゲイの旦那と結婚といった経験をしているらしいですが、それらを笑い飛ばすというよりも、その裏にある苦しさというのを書き綴ったものです。


ナルシシズムというのは、決して満たされることのない穴のあいたバケツに水を注ぐこと。そして水を注いでも満たされないのはバケツに穴があるせいでなく、自分に欠落があるのだと考え、さらに狂おしく水を注ぐ、ということだそうです。

このナルシシズム論というのは同意はできませんが、なかなか興味深かったです。


また、他者からの”赦し”という視点で、いわゆる承認欲求を捉えています。普通の人は、ここまで度を越した”赦し”への渇望はないでしょうが、女性故の苦しさでしょうか。


書いている多くのことに同意ができず、谷底に落ちてしまった感満載の独白の本でしたが、背景にある想いについては共感できることも多く自分も(そしておそらくほとんどの人が)崖っぷちにいるんだなぁ、と感じる本でした。

 
posted by 山崎 真司 at 21:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会一般

饗宴

プラトン著
岩波文庫 560円(税別)
初版: 1952年10月


原著は2300-2400年くらい前の本でしょうか?原題はシュンポシオンでシンポジウムの語源だそうです(Wikiより)。

話は、アガトンの家でソクラテスや他の客が愛の神(エロス)を讃えるという物語です。ここでそれぞれが愛の神を讃えるのですが、基本的には「愛」についての演説です。
ここでエロスを”万人向けのもの”(パンデモス)と”天上のもの”(ウラニオス)に分けたり、失われた自分の半身を求めるといった演説が行われます。


それにしても、愛についてというテーマのせいか、この演説はそのまま今でも当てはまる普遍性があります。

「なぜなら、僕だってつねづね、愛に関することのほかは、なんにもわかっていないと主張しているほどだから、(以下略)」とソクラテスが言うだけのことはあって、いつもの無知の知といった対話編と大きく趣が異なります(弁明もですが)。
 
posted by 山崎 真司 at 20:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学、人生論

2008年10月27日

フォーカス・リーディング

寺田昌嗣著
PHP研究所 1100円(税別)
初版: 2008年8月

なにやら、いかにも自己啓発っぽい本を書くのはひさびさな気がします。
ポイントとしては本の背景はアドラーの「本を読む本」と同様に、読書にはTPOというものがあるということをベースに、それでは速く読む時にはどうするか、という技術的なものを述べた本です。
まずこの本の主張のポイントとしては、まずはこの読書のTPOについてです。読書には時間、目的、状況に応じて読書をするということを述べています。またタイトル的には一見、”速読≒多読”を進めていそうなのですが、実際には著者は”速読も遅読も”必要という立場で、意外と遅読の重要性についての強調もしています。


実際に速読については練習問題などもあり、何かしら気づきがあるかもしれません。この本を読んで”速読できるようになる”のかはよく分かりませんが、ある程度読書習慣がある人でも何がしかの気づきがあるのではないでしょうか。

基本的にこの本で述べているのは読書時の姿勢と目の動かし方についてです。実際に自分でも流して読む時には、目の動きが字に追いつかないことがあり、練習というのもアリだろう、と思いました。


他人の感想を読んで:

http://keiz077.blog43.fc2.com/blog-entry-37.html
この本がコンビニにあるとは恐ろしいことです。ちなみに1ヶ月100冊読むより1冊を定着ということは大いに同意です。ちなみに私が最近読書傾向を変えたのはこの本を読んだ影響です。


http://blog.livedoor.jp/sakusakupocky/archives/50269774.html

逆にいえば「目的が達成できるんだったらすべて読まなくてもいい」ということになりますね。

1.本から学びたいことを目的として設定し、
2.その目的を達成するために本を「使う」

ことだと理解しました。表現としては「読む」じゃなくて「使う」の方が近い気がしました。
「読む」って考えるとついつい「読んじゃう」ので。「使う」と思っていた方がより読書に対する態度がぶれないかと。

これは真実だと思いますが。読書家には悲しい結末ですね。情報氾濫なのか、マーケティングの時代のせいなのか、読書の悲しい本質がバレてしまったということでしょうか。
もちろん、”No book, No Life.”というモットーを持つ人には、人生の一冊に注力しないといけないという免罪符(?)がありますが。


http://d.hatena.ne.jp/pyon3/20080926

あくまで、自分にとって相応しい内容かどうか考えてから本を選ぶ。
それが「フォーカス・リーディング」の第一歩のようですよ。

そうそう、そうそう。
あれ?寺田氏の本のポイントは体育会系の練習法でしたよね?僕も含めて、他の方もTPOについてより強い印象を持っていますね。このTPO論はアドラー本と同じ主張をしてるだけだったのですが...それを寺田氏が速読を媒介に布教(←ちょっと言葉が悪い)しているといった構造がありそうです。
 
posted by 山崎 真司 at 21:49| Comment(1) | TrackBack(0) | 自己啓発

2008年10月22日

消費伝染病「アフルエンザ」 なぜそんなに「物」を買うのか

ジョン・デ・グラーフ他著
日本教文社 1905円(税別)
初版: 2004年11月

いわゆるアメリカの大量消費社会に対する警鐘の本です。読んでいると、ブランドなんか、いらないを若干思い出します。
要は「持続可能な生活ではない、過剰消費はダメでしょ?考え直しませんか」という一言で言うことができます。
モノを買う→モノが多い→広い家→労働が増える
といった”生活レベルを維持する”労働と、その背景にある大量消費(実際には消費じゃなくて購入ですが)は、果たして幸せになったのか、といった問いかけをしています。
いわゆる、「買い物が楽しい」、「ムダにショッピングモールに行く」といった私のような生活スタイルを改めて、「持つこと」でなく「知ること」や「信じること」に価値を置き、より持続可能な生活を目指す必要があります。
この「持つこと」の背景には刺激的生活を求めるということでしょうか。実際には刺激的生活でなく、社会に対して何かを行うことを重視しましょう、といったことがポイントでしょうか。


なんというか、とても私向き(病気なので)な本でした。


ちょっとしたリンク:

http://www.kyobunsha.co.jp/shopping/books/ISBN4-531-08141-2.html
こんな本です。メーカーさんのサイトですね。


他人の感想を読んで:

http://blog.livedoor.jp/takohan_takumi/archives/50877392.html
注意。この本は自分自身の消費行動にある程度の哲学を持っている人でないと理解できない内容になっています。一ヶ月に収入の10%以上の使途不明金がある方は、消費行動を考え直した上で読むことをおススメします。

哲学は要らないと思いますが(むしろ消費哲学持ってていいの?)、消費行動は考え直します。実際にはその表層でなく、「持つこと」から「知ること」や「信じること」へのシフトや、「買う行動」から「社会への行動」へのシフトが必要であると読みました。


http://kaichou0.blog8.fc2.com/blog-entry-29.html

人はどうして物をどんどん買ってしまうのかとか、アメリカのショッピング事情とか、それを放送した特集番組の内容などが書いてありました。自分にも当てはまる例などがあったりしてびっくりしたし。まさかアメリカはこれほどすごいのかと思いました。日本よりはすごいとは思ってたけれど。まだ、されっとしか読んでないですけど、これはぜひ読むべきだと思います。
すごく素直な感想でこの通りな本だと思います。他人事(「アメリカすごいよ!!」)という気持ちと、反省の気持ちと合い半ばしながら読む本といったところでしょうか。
posted by 山崎 真司 at 23:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会一般

2008年10月15日

グノーシス 古代キリスト教の異端思想

筒井賢治著
講談社選書メヂエ 1500円(税別)
初版: 2004年10月

”グノーシス”というのは「認識」、「知識」を意味するギリシア語です。
創造神を含めてこの世を蔑視して、この世の上にある上位世界(そして外部にある至高神)を信奉するといった宗教です。この世界認識を持ってるのが”グノーシス”です。

この本では、グノーシスでも初期のキリスト教的グノーシスに絞っていて、紀元2世紀のころの、ウァレンティノス派、バシレイデース、マルキオンのそれぞれについて解説しています。


1.至高神=創造神は、自らが造った人類を罪から救うべく、自らの子イエス・キリストを遣わして人類に福音を伝えた。
2.至高神は、低劣な創造神が造った人類から、その中に取り残されている自分と同質の要素を救い出すべく、自らの子イエス・キリストを遣わして人類に福音を伝えた。
3.至高神は、自らとは縁もゆかりもない低劣な創造神が造った、自らとは縁もゆかりもない人類を、純粋な愛のゆえに、低劣な創造神の支配下から救い出して自分のもとに受け入れようとした。そのために至高神は自らの子イエス・キリストを遣わして人類に福音を伝えた。

1が当時の正統派キリスト教、2がウァレンティノスやバシレイデース、3がマルキオンといったところです。


ちなみに注意事項としてはグノーシス系の文脈ではプトレマイオスという名前が出てきますが、あの天文学者のプトレマイオスとは同時代でも別人です。


これまでキリスト教は、漸進的に進化していると漠然と思っていたのですが、こうやって読むと、異端という対照があって、正統派が深化したのでしょうか。やはり、思想というのは対立軸があってこそ深まるということでしょうか。

 

他人の書評を読んで:
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004060.html
正統派のキリスト教では人間は知恵の果実を食べたから楽園から追放されたことになっている。グノーシスでは逆に知恵の果実を食べて覚醒することで上位世界へ帰還することを薦めているように思えた。グノーシス研究上、重要な古文書ナグ・ハマディ写本には、プラトンの「国家」も収録されているそうだ。理性重視のギリシア哲学やプラトン思想に影響を受けていることが強く感じられる。
たしかにこの本を読んでいると、ナグ・ハマディ写本とかに興味でてきます。そして、このグノーシスも(そして一方で正統派キリスト教も)プラトン思想の影響を強く受けているという印象はあります。私の解釈では、理性重視、というよりも、理想重視、でしょうか。グノーシスは今の基準からすると、理性というよりも、理想論、でしょうか。もちろん、理想論というのは世界の理想でなく、ある人の理想論なんですが。


ちなみにマルキオンはもともとは船主だったということです。ストア派のゼノンも元々は船乗りだったはずです。やはり、海の上で星を見上げていると人は哲学者になってしまうのでしょうか...

真っ暗な海の上で星を見上げて、世界に思いを馳せたいものです。
 
posted by 山崎 真司 at 22:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学、人生論

2008年10月11日

物理学とは何だろうか 下

朝永振一郎著
岩波新書
初版: 1979年11月

 
先日読んだ、物理学とは何だろうか上の下巻です。
上巻ではニュートン力学から熱力学といったところを解説してましたが、下巻では熱力学から原子論への入り口を解説しています。ここから現代素粒子理論(?)や相対性理論などに入るかと思いきや、残念ながら未完となっています。これは朝永氏が病床でこの原稿を書いていたためで、初版が出版された1979年に死去されています。


この本を読むと本論である物理学の内容も去ることながら、朝永氏の教育への想いを強く感じます。もしかして、著名な教育者だろうか、と思っていたのですが....すごい方だったのですね。ノーベル物理学受賞者で、超有名人だったとは...読了しても知りませんでした。先日の物理学賞受賞騒ぎ(?)の際に、朝永氏も受賞者ということを初めて知りました。


正直いって、この下巻は物理学のベースが足りないのか、全然覚えていないのか、ストーリーを追うのがやっとでした。

下巻では、最後に分子論にたどり着くのですが、見えないものをあると仮定して探していくというストーリーは科学の歴史ならではといったところでしょう。フェルマーの最終予想や、ケプラー予想の本を呼んでいるようでした。
2300年前にデモクリトスが提案した原子論を手探りで、「観察事実に拠りどころを求めつつ自然の法則を追求する」という立ち位置から再構築しています。いや、再構築というか、手探りで進んでみて、とりあえず迷路を抜けてきたというところでしょうか。

posted by 山崎 真司 at 00:41| Comment(0) | TrackBack(0) | その他、一般

2008年09月26日

本を読む本

MJアドラー CVドーレン著
講談社学術文庫 900円(税別)
初版: 1997年10月(以前1978年から出版されていたものです。原書の初版は1940年ですが1972年版をベースに翻訳されたものです)

この本は主に小説以外の読書の方法を説明した本です。「え?読書の方法ってなに?」とか思われる方もいらっしゃるでしょうが、この本では大きくは2つの読書方法を提案しています。
これは点検読書といういわゆる斜め読みと、分析読書というより深い読み方の2つです。そして読書においては、この広く浅い読みと、狭く深い読みを組み合わせるといったことを提案しています。


これは情報を得るための読書と理解を深めるための読書は別であるという前提に立っています。たしかに情報を得るための読書と理解を深めるための読書は、別の読書方法があるはずです。また、どちらの読書にしろ、情報が均一にあるわけではないので、読書の中ではこの浅く読むと深く読むを使い分けながら読むことになるとは思いますが...

実際には、この縦横の使い方(ある読書における戦術レベルでの読み分け方)というのもあると良かったのですが.....


他人の書評を読んで:

http://tieno.blog79.fc2.com/blog-entry-223.html
読書は4つのレベルに分けれる。
そうそう、私の説明では読み方は2つ(点検読書と点検読書)と書いたのですが、この本では実際には読書のレベルという書き方をしています。まったく次元が違うものなので、読書のレベルというのとは違うのではないかなー、と思ってたの2つの読み方を提案していると書きました。


http://digi-log.blogspot.com/2007/03/blog-post_26.html

こちらの方のブログは非常によくまとまっているので、こちらを一読されたいと思ってます。ちなみに私は”シントピカル読書”というのはあまりピンとこなかったのですが...
清水は客観的読書法から主観的読書法へと変化したと述べていた。つまり、丹念に客観的にノートをとっていたのが、テーマや問題意識にそって、あくまで自分を主体に本を読むようになったということだ。これはアドラーの「分析読書」から「シントピカル読書」への移行と同じことだろう。
あるところで、客観的読書と主観的読書について議論をしていたのですが。基本的には私は主観的読書主義者です。「客観的読書よりも主観的読書の方がより良い」とかでなく、作品の価値を著者や作品に内包されているという前提だったり著者はより高い知性などを持つという前提か、価値というのは解釈の瞬間に生まれるという前提なのか、によると思ってます。


http://library666.seesaa.net/article/70208257.html

当然、著者もそれは分かっており、適宜、本に合わせて読書法を省略したり、簡略化して行うことを推奨しているが、その点についての具体的な方法はほとんど述べられておらず、『実用性』というよりも『実現性』に極めて乏しい。
少なくとも読書法を教授する意図で書かれた本であり、これを使う事でより良い読書ができることが期待されるはず。所詮ハウツー本である以上、より簡素な明確さが必要であり、分かり難いとは言わないまでもあまりに冗長な文章はいただけない。実際の読書での実現性に乏しい点に至っては重大な問題だ。何よりもこれ読んだら、読書したくなくなってしまうんですが、これって致命的な欠陥だと思うのだが・・・?
私は、この本は絶対に推薦しない。
意外な展開でした。
私がこの本を読んだ感想は「普通すぎて、特に読まなくてもいいんじゃ...」と思ってましたが。もちろん、この本で言う分析読書を細かいレベルで、個別に行う必要は無いと思いますが。
また、実はこの本はハウツー本といいながら、深い読み手にはあまり意味がない(すでにしていることが多い)し、そうでない人にはこの本自体が難しいかもしれないという気もしてきました。


http://ameblo.jp/seikoustreet/entry-10089141737.html

全体的に、ある程度本を読みなれてないと読むのが難しい本だと思います。
個人的には、点検読書とシントピカル読書の箇所を非常に興味を持って読み進めました。
「難しい本を読むとすぐ挫折してしまう」「よく本を読むが、あまり内容が理解できていない」と感じるかたは、是非1度読んでみて下さい。
個人的には中高生くらいに読んで欲しい本だと思いました。その頃読んでいれば、もっとラクに本を読めるようになっていたのに..
posted by 山崎 真司 at 23:48| Comment(2) | TrackBack(0) | その他、一般

2008年09月21日

ファッションの文化社会学

ジョアン・フィンケルシュタイン著
せりか書房 2400円(税別)
初版: 2007年9月(原書は1966年)

この本はファッション史でなく、ファッション論です。原題は”After a Fashion”です。”ファッションの向こうに”といった意味と、”どうにかこうにか”という慣用句のダブルミーニング(ひっかけ)となっています。
ファッション史は以前読んだことがあるんですが、ファッション論なんて初めてです。


というわけで、読んだ結果、思ったことです。ちなみに、これは書いてあることそのままではなくて、そこから考えたことも少しだけ含みます。よって書評ではないです。


私が読んだところで、装飾というのはファッションの一形態(表面)としては
・他人からの賞賛
・他人に対する優越感
・他人からの欲望や嫉妬されること
といったことを目的としています。

ちなみにファッションというのは
・広告イメージ(空想や理想)と服そのもの(現実)
・身体を隠しつつも、目立ちたい
・流行に乗るという同質化を図りながら、他人との差異化を図る
といった背反的なバランスを取るもので、このバランスを取るサイクルがファッションといえます。

また、記号としてファッションを見ると、ファッションは分かる人だけが分かるという記号体系です。これによって、ファッションはこの記号空間を共有しているかどうかを見分けたり、一方で同じ記号空間を共有していない人を排除するといったものとなります。
これは機能的には社会的なコミュニティ間の壁になると言えます。つまり、ファッションは、所属しているコミュニティ(=記号空間)を主張する言語である、といえます。そうやって考えると、”ファッションの向こうに”あるものは、ファッションとは、装飾や服装だけでなく、所属階級や喋り方やタバコの吸い方や聴く音楽も全て含んだものであるということでしょうか。
そういえば「服はなぜ音楽を必要とするのか?」といったタイトルの本がありましたが、このタイトルについては、自明ということになるでしょうか。


(ちなみに著者名のフィンケルシュタインを見ると、ダーマ&グレッグがどうにも頭に...)


他人の書評を読んで:

http://ueshin.blog60.fc2.com/blog-entry-830.html
これ、書評ではありませんが...
 私たちは自己満足がほしい存在である。賞賛や評価はなおさら与えてほしい。もしだれも与えてくれないとしても、ファッション雑誌が称賛し評価する服やファッションで着飾れば、私も評価され称賛された存在になれる。私は賞賛や評価を、ファッションという代替物で補給するのである。
 私たちはなぜこうも社会や世間から賞賛され、評価されなければならないのだろう。いったいだれが仕組んだんだろう。いったいだれが仕掛け人なのか。
賞賛が欲しいというのは、ファッションに限らないとは思いますが。ファッション自体は変化を求めるもので、これが無間地獄となります。この背景は、拡大を基本とする資本主義の呪縛なのでしょうか、変化を求める動物の性なのでしょうか。
この本によると、社会移動性が高まったために、
ファッションに誘惑されやすい人は「不安定な階級」、とりわけ経済的に自立する手段を奪われた女性たちだった。彼女たちがよりよいと思う人々のファッションやスタイルを模倣するのも、不安定な状況からぬけ出したいからだということになる。
ということです。


 

posted by 山崎 真司 at 21:10| Comment(2) | TrackBack(0) | 社会一般

日本人はなぜシュートを打たないのか?

湯浅健二著
アスキー新書 724円(税別)
初版: 2007年7月

この本、一見サッカー論とみせかけて日本人論としても読めます。ドイツ留学経験がある著者がそのときの経験を書いています。
著者が、「どフリーになった時にどうしよう」という不安が裏のスペースへの走りこみを躊躇させたという経験を下に、”サッカーにおいて責任を負う”ということを述べてます。
そして、この責任を負うということとして、攻撃のためのフリーランニング(オフザボールでの動き)の重要さについて述べています。実際に、一冊丸々、フリーランニング論と言っても過言ではないくらいにフリーランニングについて述べてます。


この背景という責任感の差はドイツと日本の国民性の違いから来るのか、単に日本がサッカー後進国(すくなくとも先進国でない)というところから来るのか、日本人の個人が責任を負わない特徴を持っているか分かりませんが。やはり、背景が技術論ではないことと、著者の経験(ドイツやサッカーでのコーチ経験)からすると、日本人の国民性なんでしょう..

この本はあくまでのサッカー論の本であってビジネス書ではありませんので、これをビジネス書として読むのは正しくないでしょうが。ビジネスについてサッカーについて喩えて話すのが好きな人(私)にとっては、多くの語彙を増やすことが出来た本と思いました。


ただし、あくまでも”フリーランニング論”の本なのです。

 
posted by 山崎 真司 at 09:43| Comment(0) | TrackBack(0) | スポーツ関連